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長谷部誠18歳が膝を抱えて泣いた日 “荒川行き”を命じたオフトの狙い、浦和レッズ同期・坪井慶介の記憶「つまり僕は長谷部の能力を…」
text by
島崎英純Hidezumi Shimazaki
photograph byJ.LEAGUE
posted2022/08/27 17:02
浦和レッズ2年目、2003年に長谷部誠はJリーガーとしてリーグ戦デビューを飾った。しかし2002年の1年目、ルーキーイヤーは……。
「コーチを務めていた池田太さん(現・日本女子代表監督)が浦和に残ってくれて、僕らの練習を見てくれた。だから、ボール回しだけは上手くなったように思う(笑)。でも、内心では『このまま(プロとしての人生が)終わっていくのかな』と思っていた」
坪井も「当時の長谷部についてはあまり強い印象が」
現在は解説業などに従事する元浦和の坪井氏に、当時の長谷部の印象を聞いてみた。
「僕も正直、当時の長谷部についてはあまり強い印象が残っていない(笑)。大卒の僕と高卒の彼とでは年齢が4歳違っていたし、僕がヒラ(平川)と共に指宿のキャンプへ行って、長谷部を含めた他の新加入選手たちと一時別行動になったこともあって、しばらくコミュニケーションが取れなくなりましたしね。長谷部のプレー内容についても、特別なインパクトを感じたわけでもないんですよね。つまり僕は長谷部の能力を見抜けなかったわけで、選手を見る目がなかったということです(笑)」
一方で、浦和の再生を目論むオフトには腹案があった。
長谷部を指宿のキャンプへ連れて行かなかった理由は、実は他の選手とは異なる。この指揮官は稀代の策士であり、慧眼を兼ね備える人物でもある。オフトは大抵の選手に厳しく接し、ときに口うるさい小姑のような言動を発したが、それは意図のある演技だった。
小言を並べても聞く耳を持たない者は放任、聞き過ぎてしまう者には時に諭すこともあった。そして長谷部に対しては反発心を原動力にできるタイプだと確信し、あえて他の選手よりも辛辣で手厳しい言葉を浴びせてぞんざいに扱った。
サテライトリーグで出場機会を与えられず泣いていた
2002年3月10日。JサテライトリーグAグループの鹿島アントラーズ戦でセカンドチームの一員としてベンチ入りした長谷部はしかし、ユース選手のふたりを除き、帯同メンバーの中で唯一出場機会を与えられなかった。
茨城県のひたちなか総合運動公園陸上競技場のロッカールームを出た先の木陰で、長谷部が膝を抱えて泣いていた。嗚咽する声は聞こえなかったが、その背中は激しく震えていた。この日はプロとして初めて試合に出場するかもしれないと、両親を含めた親戚に会場まで来てもらったのに、その勇姿を見せられなかった。
本人はのちに、この試合には悔しさと歯がゆさがあったと述懐している。