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長谷部誠18歳は“頑固”だった? ミスターレッズ福田正博の記憶「コイツ、気が強いな」「長谷部がこう言ったんだ。“俺、オフトに…”」
posted2022/10/10 11:03
text by
島崎英純Hidezumi Shimazaki
photograph by
Takao Yamada
2002年代前半の浦和レッズは低迷に喘いでいた。
そもそもJリーグが創設された1993年から、このクラブが各種タイトル争いに関わったことは一度もなかった。“オリジナル10”の一角で、観客動員数では常にリーグナンバー1の数字を誇る当代随一の人気クラブがタイトルを獲得できない。そのジレンマは鬱屈した感情へと変わり、このクラブの周囲で取り沙汰される様々な問題として露呈していった。
当時の浦和には、異様なまでの緊張感が漂っていた
2001シーズンはブラジル人監督体制のチームが構築されたが、シーズン初めから指揮を執っていたチッタ(以下、敬称略)が急遽退任し、後任でコーチ職に就いていたピッタが指揮権を引き継いだこの年のリーグ戦は1stステージで16チーム中7位、2ndステージでは同12位と低空飛行のまま終わった。1999シーズンにJリーグ初のJ2降格という憂き目に遭った浦和は、1年でのJ1昇格を成し遂げながらも未だ迷いの淵にいたのだった。
事態を憂慮した当時のクラブゼネラルマネジャー、故・森孝慈は外国人初の日本代表監督として1992年のAFCアジアカップ優勝、そして1993年のアメリカワールドカップ最終予選で日本を初のワールドカップ出場一歩手前まで導いたハンス・オフトの招聘を決断する。
2002年当時、某サッカー専門誌の駆け出し記者だった私は、異様なまでの緊張感が漂っていた鹿児島県指宿市でのシーズン前強化キャンプの様子を克明に覚えている。オフトはこれまでの一切の序列を排除し、年齢や経験の差異を問わず、選手たちへ正真正銘のチーム内競争を課していた。
このシーズンの大卒新人だった坪井慶介、平川忠亮、高卒2年目の田中達也、3年目の鈴木啓太らはこの時にオフトから才能を見出され、後の浦和を支える中軸へと成長していく。しかし当時、藤枝東高等学校から新卒で加入した長谷部誠は、この競争に加わることすら許されなかった。
荒川での自主練を命じられ、やるせない思いに
早期のチーム立て直しには少数精鋭での再構築が必須と判断したオフトは、クラブがこの年に獲得した11人もの新卒選手の中から坪井と平川のみを鹿児島県指宿市でのキャンプに参加させ、残りの9人には浦和が当時間借りしていた旧浦和市内近郊の荒川河川敷グラウンドでの自主練習を指示した。今の長谷部にこの一件を聞くと、懐かしむような表情を浮かべ、「まあ、これで早くも(プロサッカー人生が)終わったと思いましたよね」と回顧する。
しかし当時18歳だった頃の当の本人はもう少し感情的で、やるせなく、忸怩たる思いを抱いていた。