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羽生善治九段が「一局指したかった」伝説の最強アマ ヤクザトラブル、金の持ち逃げ、駆け落ち…「新宿の殺し屋」と呼ばれた真剣師
text by
小島渉Wataru Kojima
photograph byKYODO
posted2022/08/14 11:01
「新宿の殺し屋」小池重明(1947~1992年)。賭け将棋からアマ名人までのし上がった男の壮絶な人生とは?
2年間もブランクがあれば実力が落ちていてもおかしくなかったが、関・元アマ名人が「小池とは真剣をやりたくない」というほどトップの実力を誇った。その噂を聞きつけた大阪から、挑戦状が届く。相手はアマ名人を2期獲得した加賀敬治。1931年生まれの真剣師で、「鬼加賀」の名があった。
対局条件は1日目の五番勝負(先に3勝したほうが勝ち)は50万、2日目は一番10万の十番勝負(必ず10局指す)。通天閣の死闘は1979年に行われ、1日目は加賀白星スタートも、小池が3連勝で制す。翌日の十番勝負は加賀の6勝4敗。あわせて小池7勝、加賀7勝の五分に終わり、互角に渡り合った小池は実力を認められた。
二日酔いに“缶ビール一気飲み”でも東京代表
しかし、そうなると今度は真剣師の稼業は成り立たなくなる。誰も小池に勝てるはずがないと真剣を挑まなくなってしまうのだ。暇を持て余した小池は、たまたま読んだ将棋連盟機関誌『将棋世界』で「アマ・プロオープン平手戦」があり、アマが全敗していることを知る。腕試しに申し込んで対局したところ、見事に新鋭四段を下してプロ連勝を12で止めた。「アマとプロは角落ちのハンデが妥当」と思われていた時代に、ハンデなしの平手で勝ったのだ。あまりの大きなインパクトに、専門誌では「プロ、落城の日」とも報道された。
1980年に行われた史上初のアマプロ対抗リーグ戦にも出場し、若手プロを相手に4勝1敗と圧倒している。その評判とは裏腹に、小池自身は真剣師という稼業が成り立たないことを意識していたようだ。いくら勝ってもアマチュア大会で無冠のままでは格好がつかないこともあり、アマチュア名人戦に出場した。3日間の東京都下予選はすべて朝まで飲み、一睡もしないまま東京代表を勝ち取る。最終日の準決勝・決勝は朝からフラフラとした足取りで将棋を指せる状態ではなかったが、気付け薬代わりの缶ビールを一気飲みして自力で歩けるほどには回復。迎えた決勝戦も対局中に眠気を訴えて、持ち時間から30分ほど引いて盤の前で横になり、イビキさえかいた。残り時間が相手より大幅に少なくなっては圧倒的に不利なはずだが、それでも勝ってしまうのが小池である。
実はこのとき、記録係を務めたのが当時9歳、小学4年生の羽生だった。後年に「随分と変わった将棋を指す人だなと覚えています。後になってあのときのあの人が小池さんだったのかと懐かしく思い出しました」と振り返っている。
全国大会も小池が制し、アマ名人を獲得する。一念発起して自分で子ども将棋教室を開こうとサラ金に手を出すが、遊びに使ってしまって生活の基盤を築けないままだった。トラブルも多く、雑誌企画で大山康晴十五世名人と角落ちを指す機会に恵まれるも、前夜に新宿・歌舞伎町でけんか沙汰を起こして留置場に入れられてしまう。関係者の顔に泥を塗る寸前で、以前に稽古をつけた都議会議員のことを思い出し、身元保証人になってもらって対局場に向かった。対局は圧倒して昼前に小池勝ち。大山は自身の後援会に見学させようと思っていたが当てが外れて、広い対局室は異様な静けさに包まれたそうだ。
<後編に続く>