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酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「スカウトと毎晩ご飯を」「お客が来るのは巨人戦くらい、でも新庄・亀山人気で…」野田浩司が明かす“昭和ドラフト→暗黒阪神ここだけの話”
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKou Hiroo
posted2022/05/15 17:00
阪神とオリックスに在籍した野田浩司氏に当時の話を聞いた
結局、野田浩司は87年のドラフト会議、東亜学園高の川島堅(広島が指名)の外れ1位で、阪神から指名される。同期の1位には立教大学の長嶋一茂(ヤクルト)、PL学園の立浪和義(中日)、橋本清(巨人)、尽誠学園の伊良部秀輝(ロッテ)、浦和学院の鈴木健(西武)、本田技研熊本の吉田豊彦(南海)らがいる。
「社会人になって2年目でドラフト指名されたので、年齢的には20歳なんですけど――即戦力扱いでしたね。スカウトが評価してくれたのは馬力でしょうか。体がでかくて強かったですからね。球速は140キロを少し超えるくらいだったでしょうが、なんせアマであまり教わったわけでもないので、プロに入って教えればもっと伸びると見られていたようです」
1年目は防御率3.98なのに3勝13敗の大負け
プロ1年目は3勝13敗と大負けしたものの、防御率は3.98とそれほど悪くはなかった。その当時は先発と救援を掛け持ちしていた。
「ローテーションに入る時期もあるんだけど、今と違って中4日とかでいくんで、谷間とかもしょっちゅうできるし。リリーフも平気で3イニングとか投げる時代でした。村山(実)監督からは“もっと勉強せい”とは言われましたが、ファームに行くほど悪くはなかったので、投げながら勉強という感じでした。二軍には5年目に肘を怪我してちょっと行ったくらいで、ずっと一軍でした」
後に奪三振で名をはせる野田だが、1年目は138イニングで69奪三振と少なかった。その理由について、本人はこのように分析する。
「フォークも追い込んだ時に投げるくらいで、それにコントロールがよくなかったですね。チームも勝率3割台で弱かったですし。
で、2年目ぐらいから、リリーフで結構いいピッチングしだしたんですよ。それでリリーフに適性ありと見られて、3年目に一度は抑えに転向することになったんです。でもあまりにも失敗するんで、6月ぐらいに先発にまた転向しました。そこから迎えた4年目は阪神時代では一番成績が良かった。開幕投手に起用されて212イニング3分の2を投げて8勝14敗でしたが、たぶん強いチームだったら数字が逆になってますよね。掛布雅之さんも僕が入った年に引退されたし、打線の援護が弱かったんです」
暗黒だった阪神の亀新フィーバーと突然のトレード
当時の阪神はどん底で、1987年から91年までの5年間で最下位4回、5位1回という成績だった。野田は当時のチームの雰囲気について「本当に厳しい時で、お客が来るのは巨人戦くらいで、広島戦とかガラガラでした。オールスターまでには、もう優勝の見込みがなくなっていましたから、全員で勝つという感覚はなくて、自分のために投げる感覚でしたね」と感じていたそうだ。
しかし92年、中村勝広監督の3年目に阪神は2位に浮上する。
「亀山努、新庄剛志が人気になって、オマリー、パチョレック、それに和田豊さんなどが活躍して、投手陣も揃いましたね。僕はひじ痛で出遅れたのですが、6月くらいまでに治して7月に一軍に戻って、その月の月間MVPを取った。チームも強くなるし、さあこれから頑張るぞ、という気持ちだったのですが……」
この年のオフに野田浩司は「寝耳に水」という感じでオリックスにトレードされたのだ。
後編では当時のセ・リーグとパ・リーグの“格差”、そして佐々木朗希と並ぶ記録である「1試合最多19奪三振」の記憶、佐々木朗希への印象について聞いた。<つづく>