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酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「佐々木朗希とは次元も時代も違いますよね」「試合後、田口壮がホテルで正座を」野田浩司が明かす“1試合19Kの舞台ウラ”
posted2022/05/15 17:01
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Sports Graphic Number
1992年、阪神は1986年以来のAクラスである2位になり、野田浩司もひじ痛から復活して8勝を挙げた。さあこれからというオフに、トレード話が持ち上がったのだった。
「僕、1週間くらい旅行に行ってたんです。当時は携帯電話もなかったから、帰ってみたら留守番電話が何本も入っている。聞いてみたら“中村(勝広)監督と話してほしい”という内容だったんで、また抑えをやってくれということかな、と思っていたら電話がかかってきて“監督じゃなくて社長と会うようになったから”って。うわ、これがトレードかと思って。めちゃくちゃショックでしたね」
阪神→オリックスの環境変化は「ヤバかったですね」
トレードの相手はオリックスの松永浩美。すでに「史上最高のスイッチヒッター」という評判のスター内野手で、野田浩司は24歳、松永は32歳だった。「当時の松永さんはバリバリでしたから“千円札と一万円札を取り換えた”とかいろいろ言われました。でも、トレードなんて結局、やってみないとわからないんですね」。こう野田が話すように、松永浩美は阪神に移籍した1993年オフにFA権を行使してダイエーに移った。
「松永さんは一匹オオカミで、男気のある我が道を行くみたいなタイプでした。だから誤解もされたけど、同じ九州人として理解できるところもあります。ただ僕が移籍1年目に最多勝をとったので、えらい差がついてしまった。でも、松永さんがFA権を持っていたのは、トレードのときからわかっていたはずですけどね」
一方、野田は環境が変わったことをどのように受け止めていたのだろうか。低迷していたとはいえ、セの人気球団・阪神からパのオリックスへ、そのギャップは大きかった。
「えっ、て思うことだらけでしたね。これが同じプロ野球かと思うことがいっぱいありました。
春季キャンプは宮古島でしたが、これがヤバかった(笑)。那覇空港から宮古島に移動するときの飛行機の待ち時間で弁当配られて、みんなその辺に座って食べるんですよ。阪神ならどこかで食べろとお金をくれるんですが。
当時の評論家の方で、宮古島まで来たのは田尾安志さん一人だったんじゃないかなあ。ファンは、ほとんどいなかったと思う。阪神の安芸キャンプなら規制線を張ってガードしましたが。それにマスコミも入って来放題で、新聞記者がピッチャーの控え室に入ってきて“おいどうや?”って(笑)」
イチローが出て来る前のオリックスは……
そんなオリックス移籍1年目、チームの指揮を執るのは土井正三監督だった。