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《カンニング竹山氏も発信》震災を生きた“被災馬”の知られざるその後とは? 津波被害の乗馬クラブ「生き残ったのは41頭中わずか2頭」

posted2022/01/20 11:00

 
《カンニング竹山氏も発信》震災を生きた“被災馬”の知られざるその後とは? 津波被害の乗馬クラブ「生き残ったのは41頭中わずか2頭」<Number Web> photograph by Akihiro Shimada

現役時代には皐月賞(GI)を勝ったノーリーズンは、被災時、南相馬市の「松浦ライディングセンター」にいた(2011年撮影)

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島田明宏

島田明宏Akihiro Shimada

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 競馬好きで知られるお笑い芸人のカンニング竹山さんが、今月初め、福島県の浜通りを訪ね、東日本大震災の被災地の今の様子を何度かツイートした。

 そのなかに、震災の津波や原発事故による被災馬について、写真付きで紹介したツイートがあった。今なお福島県外への移動を制限されているかのような事実誤認があったため、現在は削除されているが、そのツイートをきっかけとした、引退馬協会の被災馬支援基金への寄付が急に増えたという。同基金は特定の厩舎(被災馬を繋養している施設)のためのものではないため、引退馬協会が、竹山さんのツイートに関連する同会への寄付を促す投稿を削除するよう求める「お知らせ」を公式サイトに掲載したほどだ。

 引退馬協会の人たちは大変だったと思うが、ともあれ、被災馬の存在があらためてクローズアップされたことは事実である。

 せっかくの機会なので、被災馬とはどういう馬たちなのか、ここでまとめてみたい。

東日本大震災により、多くの馬が「被災馬」に

 2011年3月11日に東日本大震災が発生し、「被災地」「被災者」につづいて、「被災馬」という言葉が4月ごろから盛んに使われるようになった。「被災三県」と言われた岩手、宮城、福島には、昔から馬に関する文化が根付いており、たくさんの馬がいたからだ。

 なかでも、被災馬は、福島の太平洋側の「相双地方」と呼ばれる、相馬市、南相馬市、浪江町などに多くいた。そのほとんどが、毎年7月下旬に行われる世界最大級の馬の祭「相馬野馬追」に出場する馬たちであった。千年以上の歴史を持つ相馬野馬追には、毎年、500頭ほどの馬が参加する。その半数ほどが、地元すなわち相双地方で繋養されているのだ(残りの半数ほどは、ほかの地区の乗馬クラブなどから、野馬追の期間中だけレンタルするなどして調達している)。

 相双地方では、民家の敷地のトタン屋根の下から馬がヒョイと顔を覗かせたり、野馬追の練馬(れんば=調教)が本格的に始まる5月になると、一般道にボロ(馬糞)が落ちていたりというシーンをしばしば見かける。犬や猫と同じように馬を飼っている人も多く、老若男女、馬に乗ったり、曳いたりすることのできる人がそこらじゅうにいるのだ。

 人々が馬を飼育しているのは、年に一度の相馬野馬追のため。仕事の納期も野馬追までとするなど「野馬追基準」という言葉があるほど、盆や正月と同じくらいに大切な行事になっている。

多くの元競走馬が津波に流され命を落とした

 その相馬野馬追に出場する馬の9割ほどが元競走馬だ。つまり、この地域では、種牡馬や繁殖牝馬になれなかった多くの元競走馬が「第2の馬生」を送っているのだ。このように、相馬野馬追が引退競走馬の大きな受け皿になっているということを、私は、震災を機に初めて知った。それまで20年以上も競馬に関する原稿を書きながら知らずにいたことを恥じ入る気持ちもあり、以降、たびたび現地を訪ねて被災馬の取材をするようになった。

 多くの馬が震災の津波に流され、命を落としたり、住むところを失ったりした。飼い主も亡くなり、血統書など、個体識別のための資料も紛失した場合は、それらの馬をケアしたことのある獣医師や装蹄師が協力して「本人(本馬)確認」をしたという。

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