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“平凡な女流棋士”だった22歳の決断「自分を変えないと、ここから先には…」渡部愛がすがった“将棋界初のコーチング”とは
text by
いしかわごうGo Ishikawa
photograph byYuki Suenaga
posted2022/01/20 17:00
インタビューに応じてくれた渡部愛女流三段
「自分を変えないと、ここから先には進めないのではないだろうか」
2016年2月。
22歳の渡部愛はそんな不安に襲われていた。
高校卒業後に北海道から上京し、女流棋士の活動を本格的に始めたのは20歳の頃だ。対局では勝ったり負けたりを繰り返す日々で、勝率は5割台。言ってしまえば、凡庸な女流棋士だった。
強烈だった“たった2回の指導”とは
強くなるための努力と勉強は、情熱を注いでやっているつもりだった。
アマチュア時代から習慣化している詰将棋や棋譜並べ、そして「研究会」と呼ばれる棋士同士の練習対局も積極的にこなし、それらが糧となっている実感もあった。
だが成績は上向かない。タイトル戦への挑戦という目標にリアルさは感じられず、描いていた未来と直面している現実とのギャップは大きくなるばかりだった。
どうすれば、強くなれるのだろうか。
先輩棋士にアドバイスを求めたが、何者でもない彼女が抱えている問題の解決策には至らなかった。それもそうかもしれない。何が問題なのか、当時の彼女自身が気づいていなかったからだ。問題を把握していないのだから、聞かれた棋士も適切な回答など出しようもない。
その糸口を見つけられない日常に、徐々に自分の先が見えなくなり始めていた。いや、正確に言えば、女流棋士として見渡す景色の果てが見え始めてしまったような感覚だったのかもしれない。
悩み続けていたある時、北海道の先輩棋士である野月浩貴八段の存在を思い出した。師匠とも言える同郷の中井広恵女流六段と親交があり、学生時代に将棋を教わったことがあったのだが、その時の指導法が実に印象的だったのだ。渡部は言う。
「中学3年生の時に帯広で将棋を教わったんです。あとは高校生になってから、中井先生の研究塾で教わった時に、誰よりも理論立てて指導してくれました。当時の私は感覚で指すことが多かったのですが、そこを見抜かれて、子供ながらにすごい先生だなと思ったんです。野月先生に教わったのはその2回だけなのですが、強烈でした」
「野月先生 突然申し訳ありません」
将棋連盟などで会えば挨拶は交わしていたものの、日常的に連絡を取るほど近しい間柄ではない。だが強くなりたい気持ちが勝り、意を決してこんなメールを送った。
「野月先生 突然申し訳ありません。お願いがあって連絡させていただきました。自分はタイトル戦に出られるような女流棋士になりたいと思っていますが、今、悩んでいます。大変厚かましいお願いですが、もしよろしければ将棋を教えていただけないでしょうか」
渡部からすれば、それはまるで「蜘蛛の糸」のようなものだったのかもしれない。「NO」と言われてしまったら、そこで切られて終わりだ。とてもとても、か細い蜘蛛の糸だった。そして自分を変えたい彼女はそこに賭けた。