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「おれは、苦しいんだ」田原成貴が聞いた菊花賞馬マヤノトップガンの“声”とは…人馬ともに型破りな〈脚質・自在〉の誕生秘話
posted2021/10/23 17:00
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph by
JIJI PRESS
デビューからダート1200mばかりを6戦した馬が菊花賞をレコードで制し、翌々年の天皇賞・春で芝3200mの世界レコードを叩き出した。
そんなふうにサラブレッドの難しさと面白さ、そして、自身のとてつもない能力の幅を見せてくれたのが、マヤノトップガンという馬だった。
「強いのか弱いのか、よくわからない馬」
1995年1月8日、京都ダート1200mの4歳新馬戦(旧馬齢、以下同)で武豊を背にデビューし、5着。
2戦目の未勝利戦は田原成貴が乗って3着。3戦目から5戦目までは武の手綱で3着、1着、3着となり、6戦目からラストランとなる97年の天皇賞・春まで、ずっと田原が騎乗する。
2勝目は、デビュー7戦目、ダービーデーの5月28日に中京ダート1700mで行われた500万下。次走、3着となった6月のロイヤル香港ジョッキークラブトロフィー(中京芝2000m)からは芝を使われるようになる。
脚元に弱いところがあったからダートを使われたわけだが、そのわりには毎月コンスタントに出走し、上位に入っていた。陣営も、この馬の適性と、脚元の具合を見極め切れずにいたのだろう。田原もこのころのトップガンを「強いのか弱いのか、よくわからない馬だった」と評している。
7月のやまゆりステークスで芝初勝利を挙げ、菊花賞トライアルの神戸新聞杯と京都新聞杯ではともに首差の2着となり、11月5日の第56回菊花賞に駒を進めた。
菊花賞のポイントは“1周目”にあり
1番人気はフランス遠征からの帰国初戦となったオークス馬ダンスパートナー。2番人気は京都新聞杯を勝ったナリタキングオー、「夏の上がり馬」のマヤノトップガンは3番人気だった。
牝馬が1番人気だったことが示すように大混戦の様相を呈していたこの菊花賞で、トップガンは序盤から好位につけ、4角先頭の強い競馬で押し切った。重賞初勝利がGI制覇となった。
後続に脚を使わせる早めの仕掛けに見えたが、田原は「仕掛けをギリギリまで遅らせた」と振り返っている。3コーナーから動いたのは田原が仕掛けたからではなく、ただ流れに乗っていただけだったという。