パラリンピックへの道BACK NUMBER
《メダルは計20個》追突事故で「体温調節も困難」から始まったパラ競泳・成田真由美の伝説 数カ月の入院、3度の手術、一度は引退も…
posted2021/09/01 11:02
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph by
Getty Images
8月30日、競泳50m背泳ぎ決勝。6位入賞を果たした成田真由美はプールを上がると、笑顔を浮かべた。
今大会4つ目の種目、そして最後のレースだった。ここまでの3種目は予選ですべて9位と決勝には進めずにいた。ようやく進出できた決勝で、予選から2秒弱タイムを縮める泳ぎを見せたあと、成田は言った。
「泳ぎ切って、幸せな気持ちです」
そこには、東京大会にとどまらず、競技人生への思いが込められていた。
大会の帰路、追突事故に
8月27日に51歳の誕生日を迎えた成田にとって、東京は、6度目のパラリンピックだった。
最初に出場したのは1996年のアトランタ。2004年のアテネまでの3大会で、金15、銀3、銅2と、実に計20個のメダルを獲得した。2008年北京大会を前に障害が1つ軽いクラスに変更となったことから、その後の大会でメダルはならなかったが、一度は第一線から退きながら復帰し、リオ、東京と出場を果たした輝きがあせることはない。何よりも、最初のアトランタから25年、四半世紀にわたり数々の壁を越えて今日まで歩んできたことが、その過程の価値を物語る。
成田は中学生のときに脊髄炎で下半身不随になり、車いすでの生活を送ることになった。
転機は23歳で訪れた。知人に誘われ、水泳の大会に出てみた。わずかな準備期間しかなかったが、自由形で好記録をマークし優勝する。水の中で重かったはずの足が軽く感じられた。病にかかる前、運動は得意としていた中で苦手だったのが水泳だった。いわゆる、かなづちだった。そんな成田が、泳ぐことの魅力を初めて知った瞬間だった。
しかしその大会の帰路、乗っていた車が追突事故に見舞われた。頸椎を損傷し、左手に障害が残った。