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《メダルは計20個》追突事故で「体温調節も困難」から始まったパラ競泳・成田真由美の伝説 数カ月の入院、3度の手術、一度は引退も… 

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松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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posted2021/09/01 11:02

《メダルは計20個》追突事故で「体温調節も困難」から始まったパラ競泳・成田真由美の伝説  数カ月の入院、3度の手術、一度は引退も…<Number Web> photograph by Getty Images

東京大会が6度目のパラリンピックとなった成田。これまで計20個のメダルを獲得してきたレジェンドが迎えた集大成だった

「体温調節も困難」…度重なる入院や手術も

 一度は落ち込みつつも、成田は気力を取り戻す。

 しかし本格的に泳ぎはじめ、練習できる施設を探してあたってみると、次々に断られた。それでもようやく受け入れてくれるところをみつけた。それが今日まで拠点となった「横浜サクラスイミングスクール」だった。

 追突事故による影響により、体温調節も困難になっていた。だから練習の合い間には冷水をかけて体温を下げるなど、工夫を要した。その中でも練習に励み、パラリンピックで活躍。第一人者と目されるまでになった。

 その間も順風であったわけではない。パラリンピックとパラリンピックの間には、病気や怪我などに苦しみ、入院や手術を何度も繰り返した。6つの金メダルを獲得した2000年シドニーのあとは大病を患い、数カ月の入院をよぎなくされた。アテネから北京の間にも、3度の手術を経ている。心臓にも病を抱えている。いつも順調に4年間を過ごせなかった中で、活躍を続けた。

 クラスの変更の影響からメダルなしで終えた北京大会の後、一度は競技の第一線から退いた。

競技から遠ざかっていた成田が復帰を決めたワケ

 復帰を促したのは、2013年、東京開催が決定したことだ。パラリンピックの認知度はまだ低い。障害者スポーツを含め、日本が変わるきっかけにもなる。その中で自分は何をすべきか。そう考えた先にあったのは、「選手に戻ろうと思いました」という決意だった。

 復帰後は自己ベストを更新するなどして、リオの代表に選出される。

 50m自由形で自身の持つ日本記録を更新し5位入賞を果たすなど力を存分に発揮した成田は、こう語った。

「障害者の置かれている環境とかパラリンピックの知名度を高めたいですし、たくさんの障害を持っている人がいるというか、命の尊さをみつめてほしいです」

【次ページ】 「自分が考えていた以上の競泳人生」

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