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山崎康晃の少年時代は“荒川のノーコンピッチャー”? それでも4番ショートで輝いていた“抜群の野球センス”とは 

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花田雪

花田雪Kiyomu Hanada

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photograph byNaoya Sanuki

posted2021/05/05 11:03

山崎康晃の少年時代は“荒川のノーコンピッチャー”? それでも4番ショートで輝いていた“抜群の野球センス”とは<Number Web> photograph by Naoya Sanuki

2021年、復調気配の山﨑康晃。彼の少年時代を紐解くと興味深い成長曲線が見える

「下級生のころから試合には出ていました。ピッチャーとしてはまだまだコントロールに難があったので、メインポジションはショートでしたね。バッティングも良かったですから」

「4番を任せることも多かった」ワケ

 打順は「4番を任せることも多かった」という。

「特に3年生になってからは、ヤマが打席に立つと外野手がみんな下がる。そういうバッターでした。ピッチャーとしても少しずつ技術が追い付いてきて、投げる機会も増えてきましたが、いわゆる『絶対的エース』ではなかったですね。チームにはもうひとり、柳田玲於奈というピッチャーがいて、彼との併用が基本プランでした」

 小学校時代は『制球難』だったピッチャー・山崎康晃だが、その課題は少しずつ克服された。その理由を、内山さんはこう語る。

「中学に入って、グライティーズとは別に中学校の野球部にも入ったんです。平日は学校で野球をして、土日は荒川の河川敷でクラブの練習に出る。いわゆる掛け持ちです。野球部の試合があるときは、そちらを優先させることもありましたが、小学校までは土日だけだったのが、いきなり野球漬けの毎日を送ることになった。そこで、意識も大きく変わったんじゃないかなと思います。それまでは高い能力を持て余していたのが、少しずつですが技術が追いついてきた」

 平日は部活動、休日はグライティーズの練習。毎日のように『野球』に触れ合うことで、山崎少年の技術はめきめきと上達した。

多くの出会いを、成長へとつなげた

 チームとしても、山崎少年の代のグライティーズは優秀な成績を残したという。

「荒川区内では結構勝っていた印象が強いです。ただ、いつも準優勝どまりだったイメージですね。都大会には2チーム出られるので、準優勝でも及第点ではあるんですけどね。ヤマの代で一番印象に残っているのはKボールの大会。都大会の決勝戦まで行って、強豪の大森ホワイトスネークスさんと対戦したんです」

【次ページ】 ホームスチールされてのサヨナラ負け

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