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<反骨の源流>
山崎康晃「いつも悔しさを糧にして」
posted2020/08/07 07:30
text by
日比野恭三Kyozo Hibino
photograph by
Hideki Sugiyama
3番手の控え投手。甲子園での初登板は劣勢での救援であり、試合はそのまま敗れた。何もできなかった悔しさ。山崎の物語は常に、その悔しさを原動力にして進んできた。日本有数のクローザーとなった今も、それが彼を支えている。
2009年8月22日 準々決勝
帝京 3-6 県岐阜商
帝京が初回先制するが、すぐさま逆転。3回に4点を追加される。4回から登板した山崎は3回を無失点に抑えるが反撃も届かず敗戦。
巨大なスタンドに囲まれたグラウンドの真ん中に立つと、華奢な少年の姿はなおのこと小さく見えた。背中には「15」の白布が縫い付けられていた。
'09年8月22日、帝京の2年生だった山崎康晃は、この日初めて甲子園で投げた。準々決勝の4回裏。県岐阜商業に5点差をつけられていた。
「足、震えてましたよ。地に足がついてない感覚で投げていた記憶がありますね」
球は暴れたが3イニングを無失点で切り抜けた。しかし個人としての結果は、敗戦という事実の前にほとんど意味を失った。
山崎の高校野球の記憶は、その大半が悔しさで占められている。まずチーム内での競争がタフだった。山崎が思い返す。
「1つ下にスーパー1年生がいましたから。前田(三夫)監督も『特別扱いする』って言ってて。ぼくは『かかってこい!』くらいの気持ちでいたけど、セレクションの段階で144kmを出していた。これはエンジンが違うな、と。プロに入って『プレミア12』で大谷翔平といっしょにプレーしたときの衝撃と似てましたよね」