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ベガルタが2011年4月23日に灯した
J再開での希望と、手倉森監督の涙。

posted2020/04/23 20:00

 
ベガルタが2011年4月23日に灯したJ再開での希望と、手倉森監督の涙。<Number Web> photograph by Toshiya Kondo

劇的な逆転勝利後、サポーターと喜びを分かち合う仙台イレブン。ここから手倉森監督とベガルタの躍進が始まった。

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飯尾篤史

飯尾篤史Atsushi Iio

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Toshiya Kondo

 9年前の4月23日、等々力陸上競技場のスタンドには「FORZA SENDAI」と書かれたビッグフラッグが掲げられ、お馴染みのチャントが鳴り響いていた。

「ベガルタ仙台 GO 行くぞ仙台 俺たちとともに READY GO」

 だがそれは、スタジアムのアウェー席をゴールドに染めたベガルタサポーターによるものではなかった。

 フラッグが掲げられたのも、チャントが歌われたのも、川崎フロンターレのサポーター集団が陣取るホームのコーナーフラッグ付近、いわゆる「Gゾーン」だった。未曾有の大震災に見舞われたフットボールファミリーに贈られたエールであり、メッセージだったのだ――。

手倉森監督が再集合時に伝えたこと。

 2011年3月11日、三陸海岸沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震が発生し、岩手、宮城、福島の東北3県沿岸部を中心に甚大な被害をもたらした。

 仙台をホームタウンとするベガルタ仙台も大打撃を受けた。

 クラブハウスの壁は割れ、天井が崩れ落ちた。ホームのユアテックスタジアムもエントランス広場や観客席近くのコンクリートが崩れ、しばらく使用できなくなった。

 チーム関係者には、宮城県外に避難して再開を待つ者もいれば、県内にとどまってボランティア活動をする者もいた。

 チームがクラブハウスに再集合したのは、震災から17日後の3月28日だった。翌日、練習前のミーティングで発せられた手倉森誠監督の言葉に、選手たちが奮い立つ。

「被災地の希望の光になろう」

 かつて震災に見舞われた経験を持つアルビレックス新潟やヴィッセル神戸から練習環境提供の申し出もあったが、手倉森監督は心遣いに感謝しながら、「同じく被害を受けた関東で準備をしようと思います」と答え、千葉県と埼玉県でキャンプを張った。

 10日に行われた大学生との練習試合には、多くのベガルタサポーターが駆けつけ、「ベガルタ仙台」コールで激励。13日には湘南ベルマーレと、16日には大宮アルディージャと練習試合を行った。

 こうして4月23日のJリーグ再開を迎えたのだった。

【次ページ】 静寂に支配されたスタジアム。

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