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メダルや優勝だけがナンバーワンか。
レスリング太田章の生き方と銀2つ。
text by
藤島大Dai Fujishima
photograph byKyodo News
posted2020/04/13 07:00
レスリング重量級においてオリンピック2大会連続で銀メダルを獲得した太田章。
賢く柔らかい者と愚直で不器用な者。
あらためて太田章はいくらか憎らしいレスラーだった。だから五輪のマット、まさに世界の舞台で頼もしかった。無理がなく賢くて柔らかい。正面突破の手は選ばず、ふわふわと、なお、鋭利に白星をすくいとる。
1988年。ソウル五輪のイヤー。太田章は、3月の五輪2次選考大会で赤石明雄にフォール負けを喫して2位に終わった。5月6日の最終選考大会では同じ顔合わせに勝利。同13日のプレーオフに切符を争った。
当時、中途入社3年目のスポーツ紙記者としてレスリング取材を手伝った。太田章が早稲田大学4年のとき、筆者の暮らしたラグビー部寮の先輩が紹介してくれて、いっぺんだけ会釈したことがあった。自然な心情ならひいきしたい。なのに実は国士館大学出身でこのころ東山梨教育事務所所属の赤石明雄にひかれていた。
1987年の世界選手権代表の赤石明雄は、記憶が屈折していたらあやまるほかないのだが、愚直でちょっと不器用で、もちろん地力は確かだった。
生きるか死ぬかのプレーオフ。細部は忘れた。ただ敗者は正直にタックルに入り、もっぱら守るロスアンゼルス大会2位にいなされ、切り返され、僅差に泣いた。
赤石、かわいそうだ。若き記者のそれが正義感めいた感情だった。のちに「庶民栄誉賞」選考委員となる表面処理機械会社社員も純な青年として「あれが実績のある太田章でなかったらもっと消極性を注意されるのでは」と感じた。
「すれすれ」の優位を手放さない。
すれすれでつかんだソウル行き。そんな「すれすれ」が生きた。すでに31歳。いちどは引退している。国内でも対戦者を圧倒はできない。しかし、もとより圧倒の困難な世界の強豪と当たっても「すれすれ」の優位を手放さない。
5回戦(準決勝相当)。米国の実力者であるジム・シャーとぶつかる。0-8まで差を広げられた。ところが一瞬の「ともえ投げ」からフォールしてしまう。わざとスキをこしらえてタックルを呼び込んだように映った。折れた肋骨で臨んだ決勝ではソ連のマハルベク・ハダルツェフに完敗を喫した。
1992年のバルセロナ五輪にも挑み、出場をかなえ、3回戦で散った。根っこが強靭なのにパワーまかせでない。だから身体が衰えても勝負の冴えはさびつかなかった。