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ピクシーが語るJと背番号への思い。
「他の選手が10番なんてありえない」
posted2019/03/01 11:30
text by
西川結城Yuki Nishikawa
photograph by
Takuya Sugiyama
イニエスタ、ビジャなどW杯優勝を経験し、ビッグクラブで活躍した超一流プレーヤーのJリーグ参戦を機に、草創期からピッチを彩った世界各国のレジェンドたちの中から「J史上最高」を考えてみようという企画です。
2月6日から2月20日までの15日間で集まった票は2127。
集計の結果、ダントツの得票で第1位に輝いたのは、Number973号「Jリーグ1993-2019 最強外国人は誰だ!」の表紙を飾ったストイコビッチ。
現在、中国サッカー・スーパーリーグの広州富力で監督を務めるピクシーを訪ねて、投票の結果を伝えるとともに、当時のお話を聞きました。
Jリーグ史上最強外国人は誰だ。そのアンケート結果が出た。
1位は、ダントツの得票数でドラガン・ストイコビッチだった。中間発表の時点でもピクシーはトップだったが、最後は2位のジーコの約3倍の票を集めることになった。
2月中旬。オーストラリアはシドニーにいたピクシーに会いに行った。その時点ではまだ中間発表の結果しか出ていなかったが、近況を伝えると笑顔を隠さなかった。
「ウレシイデスネ。アリガトウゴザイマス」
インタビューの間も、時折日本語の単語を混ぜてこちらを楽しませてくれるあたりも、昔と何も変わらないピクシーがいた。
Number973号で記事にした内容以外にも、印象的だったエピソードは1つや2つではない。「私は選手で7年、監督で6年の13年間も日本にいたわけだから」と本人が語るだけのことはある。
ピクシーは自己愛に満ちている。誤解を招く表現かもしれないが、それはサッカー選手としての実力に絶対的な自信があるから。
「私の技術、サッカーインテリジェンスは、この世界では何も疑問を抱かせない存在だ」
こんなセリフをサラリと言ってのけられるのである。
1994年、彼の背中に10番はなかった。
1994年に来日した当初は、Jリーグに馴染めず苦しんでいた。その翌年、アーセン・ベンゲルが名古屋の監督に就任してから彼の黄金期は始まるのだが、実は誰もが覚えているであろうあの華麗な雨のリフティングは、実は'94年の出来事だった。
その時、ピクシーが付けていた背番号は「8」。当時はまだ固定番号制ではなく、先発選手11人が1番から11番までを付けていく方式だった。'94年と言えば、名古屋にはもうひとり、ビッグネームが在籍していた。
ギャリー・リネカー。日本ではケガに苦しみこのシーズンを最後に引退したが、'86年メキシコW杯ではイングランド代表のエースとして得点王に輝くなど、世界的なストライカーだった。
10番を背負っていたのは、リネカー。ただ、彼よりもその背番号に強いこだわりを持っている男が、ピクシーだった。