ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
今の新日本隆盛を半世紀前に先取り。
ジャイアント馬場を正当に評価する。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2019/02/06 10:00
ジャイアント馬場のジャンピングニーパッド。そのスケールの大きさは日本プロレスにとって偉大な財産だった。
'60年代の“失われた栄光”。
またこの時期、猪木はことあるごとに馬場との対戦をアピール。対戦に応じようとしない馬場は、「猪木から逃げている」というイメージを作られた。年齢とともに身体の線も細くなり、'70年代から'80年代にかけては、笑いのネタにされたり、試合中に「馬場、引退しろ!」と野次られることも少なくなかった。
日本人で唯一、“世界最高峰”NWA世界ヘビー級王座を三度獲得したという実績はあるものの、いまの50代以下のプロレスファンで、馬場に対して「強い」というイメージを持っている人は、けっして多くはないだろう。
三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太らが激闘を展開した'90年代の“四天王プロレス”時代になると、全日本プロレスの総帥であるジャイアント馬場は、「馬場さん」とファンから“さん”付けで呼ばれ、敬愛される存在ではあったが、それは“プロレス界の天皇”的な敬われ方であり、プロレスラーとしての評価とはまた少し違っていた。
'60年代の馬場の栄光は、'70年代以降の猪木の活躍によって意図的に薄められ、ファン層の入れ替わりとともに、半ば“失われた栄光”となっていたのだ。
力道山を強く継承したのは猪木?
そんな馬場が、ここにきて再評価されてきたのは、現在の新日本プロレスの隆盛と、じつは無関係ではない。
ジャイアント馬場といえば、“王道”、“保守本流”のイメージが強いが、じつは昭和プロレス史を俯瞰して見ると、じつはスタイル的に異端な存在であった。
日本のプロレスは力道山がアメリカから持ち込んで発展させたものであるが、力道山のプロレスと、当時のアメリカのプロレスは似て非なるものだった。
アメリカのプロレスは'50年代からすでにエンターテインメント性の高い娯楽スポーツであったが、力道山はそれをそのまま輸入するのではなく、日本人の嗜好に合うように加工。“真剣勝負”、“ケンカ”、“最強”といった要素をより強く打ち出したのだ。
そんな力道山プロレスのエッセンスをより強く受け継いだのは、馬場ではなく、猪木だった。
猪木は'70年代以降、力道山が打ち出してきた“真剣勝負”的なイメージをさらに強調。ボクシングや柔道など他ジャンルのトップ選手と対戦する「異種格闘技戦」を行い勝利することで、“プロレスこそ最強”の大風呂敷を広げ、「プロレスラーは強くなくてはいけない」という猪木イズムを、ファンや配下のレスラーに浸透させた。