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佐野稔、羽生結弦らを育てた名伯楽。
フィギュア界伝説のコーチ・都築章一郎。 

text by

石井宏美

石井宏美Hiromi Ishii

PROFILE

photograph byAsami Enomoto

posted2017/12/12 07:00

佐野稔、羽生結弦らを育てた名伯楽。フィギュア界伝説のコーチ・都築章一郎。<Number Web> photograph by Asami Enomoto

現在は横浜銀行アリーナ(神奈川)で活動している都築コーチ。日本が現在のようにフィギュア王国となると、1960年代に誰が想像できただろうか……。

ソ連の地で受けた、あまりにも大きな衝撃。

 佐野を見ての第一印象は「バランスのとれたスケーター」だった。

「世界一番になろうね」

 指導者としてはまだまだ未熟で、世界一になるという確固たる根拠はなかった。しかし、佐野にこんな言葉をかけながら、指導することに無我夢中になっていた。

 リンクではもちろん、停留所でバスを待っている時に回転運動をさせたり、「これはいいんじゃないか」と思ったトレーニングはすぐに行動に移し、積極的に試してみた。

「今思えば非常に無駄の多い練習だったと思います。それを実践する佐野も大変だったでしょうし、佐野のご両親や周りも大変だったと思います。ただ、佐野も私を信頼してくれていたし、ご両親も私を信頼してくださった。それがどんなに苦しいトレーニングにも耐えられた大きな要因になったと思いますし、だからこそ、“佐野稔”というスケーターが誕生したのだと思います」

 1969年には佐野や教え子に加わっていた長久保裕らとともに、ソ連(現ロシア)のモスクワへ海外派遣された。

 現地で受けた衝撃は、都築の予想を超えるものだった。

「練習の仕方や環境面など、日本では想像できない条件が揃っていました。さらに、完成された芸術といいますか、何もかもが洗練されていて。スケートそのものはもちろんですが、それに上乗せしたことをやらなければいけない、と」

1977年、世界選手権で佐野稔がついに銅メダルを!

 モスクワでの経験が、都築をさらにフィギュアスケートの指導へと没頭させた。

 自分もいつかはこんな素晴らしいスケーターを育てたい。そして、日本にスケートを根付かせたい。そんな思いが都築の気持ちを奮い立たせたのだ。

 手探りで始まった指導だったが、1977年には佐野が世界選手権で日本男子として初めて、アクセルを除く5種類の3回転ジャンプを成功させ、銅メダルを手にした。

 日本独自の指導のみで選手を世界トップレベルまで押し上げることが大変な時代に手にしたメダル。しかも、海外を見渡しても3回転ジャンプが1つか2つという選手がめずらしくない時代に、5種類の3回転ジャンプを成功させたことは、佐野が世界のトップ選手と呼ぶにふさわしい位置に上り詰めたことを意味する。

 それは、佐野自身の努力はもちろん、都築の指導やフィギュアスケートに対する愛情そのものなのである。

【次ページ】 佐野の銅メダルから25年あまり経ったある日……。

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