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日本が育てたカナダ代表。 

text by

木崎伸也

木崎伸也Shinya Kizaki

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photograph byAFLO

posted2006/12/25 00:00

日本が育てたカナダ代表。<Number Web> photograph by AFLO

 本当にもったいないことをした。

 デンマーク1部のベイレBKでプレーする中島ファラン一生が、カナダ代表として11月のハンガリー戦に初出場したのである。彼の年齢は22歳。もう日本代表でプレーすることはできなくなってしまった。

 現在、中島はベイレの攻撃的MFとしてレギュラーに定着している。MFといっても1トップのちょっと後ろに位置したり、左のウィングに入ったり。日本的な感覚からいえばFWだ。

 今季、すでに彼は5得点をあげている。これはチームで2番目に多い数字だ。シーズンが開幕した当初は鎖骨を骨折したこともあって出遅れたが、その後、持ち味であるスピードを生かして得点を重ねている。「もともとMFなんですけどね。打つと入っちゃうんです」と中島は笑う。

 1984年、中島はイギリス人の父、日本人の母のもと、カナダのカルガリーで生まれた。その後、3〜10歳は日本、11〜15歳はイングランドで生活を送るも、16歳のときに再び日本に戻ることを決意した。イングランドではサッカーと学業の両立が難しいことがわかったからだ。ロンドンではクリスタルパレスのユースでプレーしていた彼は、すぐに東京ヴェルディのユースの入団テストに合格した。

 都並敏史監督のもと、彼は才能を伸ばし続け、トップに昇格することはできなかったものの、反町康治監督が率いていたJ2のアルビレックス新潟に入団することができた。J2では1試合も出られなかったが、シンガポールリーグにあるアルビレックスの下部クラブに移籍すると一気にFWとしての才能を開花させた。2005年にはリーグの新人賞にも選ばれている。そこでの活躍が目にとまって、2006年にデンマーク行きの切符をつかんだのだった。

 常々、中島は「できれば日本代表でプレーしたい」と言っていた。しかし、デンマークリーグは日本で放映されていないし、新潟で目が出なかった選手が流れつくシンガポールリーグ出身というのも印象を悪くしていたのかもしれない。いくら中島が結果を出そうと新潟は戻って来いとは言わなかったし、もちろん日本代表からの誘いなんてあるはずがなかった。他国からの誘いを受けたとき、断れというほうが酷だろう。

 11月15日、中島は生まれて初めてカナダ代表のユニフォームを着てピッチに立った。ハンガリーに0対1で負けてしまったものの、後半1分から出場して新たな一歩を踏み出した。

 日本の育成システムの中で育った高校生が、J2のチームを経て、カナダ代表に名前を連ねたことを日本は誇りに思ってもいいのかもしれない。しかしながら、FWの決定力不足に悩む日本代表にとって、才能のある若者を他国の代表に取られてしまったことを考えると、素直に喜べないのも事実だ。

 今後、中島がカナダ代表のエースに登りつめることを祈るとともに、日本サッカー協会が国外で急成長する若手をきちんとチェックできるスカウト網を持つことを期待したい。

#中島ファラン一生

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