革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「野茂英雄が行っていなかったら、道がないですよ」1994年の近鉄バファローズが生んだものとは…藤井寺の「夢の跡」に“彼らの息づかい”は今も
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2025/06/27 11:04
ひとりの革命者を生みだした「1994年の近鉄バファローズ」。近鉄も、藤井寺球場もなき今でも、その息づかいが残る場所がある
あのとき、野茂が残っていたら……
石井浩郎は、野茂がもし、近鉄で複数年契約を結んでいたら、という想像をすることがあるという。
「もし近鉄が、94年の契約交渉のときに『5年契約をしよう』なんて言って、それで5年契約になっていたら、野茂はメジャーに行っていない可能性もあるんですよね。あの時、野茂は26歳。だから、30過ぎてメジャーに行けたかどうか、分からないじゃないですか。あのタイミングで行って、活躍したから今、これだけの選手がアメリカに行ける。
野茂が道を作ったというのは、当然誰もが認めているわけで、あそこで野茂が行ってなかったら、イチローを含めて、今の大谷翔平まで誕生していたかどうかというと、ちょっと分からないですよね。野茂の後が、長谷川(滋利)でしょ、伊良部が行って、大魔神佐々木(主浩)ですか。吉井(理人)もそう。野茂が行ってなかったら、多分、道がないですよ。きっと、その流れが遅れていたんでしょうね」
「1994年の近鉄バファローズ」が生んだもの
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野茂英雄は、道なき道を切り開いてきた。
大谷翔平が生まれたのは1994年。大谷がまだ何者でもなく、漠然と、メジャーへの夢を抱いていた岩手の野球少年だった頃、野茂英雄は自らが切り開いた道を、力強く歩んでいた。
あの“決断”が、日本の野球界の歴史を変え、その流れに加速度をつけたのだろう。
その道を、長谷川が、伊良部が、イチローが、松井秀喜が、そして大谷翔平が辿り、今なお、現在進行形で、新たなる歴史を積み重ね続けている。
野茂からの「歴史のバトン」は、着実に、後世へと繋がっている。
その始点が、藤井寺だったといっても過言ではないだろう。
歴史の1ページに記された「1994年の近鉄バファローズ」が生んだ「パイオニア」の存在価値は、30年という長い月日が経った今もなお、色あせない。
〈了/初回から読む〉


