革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「野茂英雄が行っていなかったら、道がないですよ」1994年の近鉄バファローズが生んだものとは…藤井寺の「夢の跡」に“彼らの息づかい”は今も
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2025/06/27 11:04
ひとりの革命者を生みだした「1994年の近鉄バファローズ」。近鉄も、藤井寺球場もなき今でも、その息づかいが残る場所がある
2006年に取り壊された藤井寺球場。そのスコアボードは、最後まで手動だった。その時に使われていた「野茂」のネームプレートが、パッと飛び込んでくる。
鈴木啓示と藤井寺球場の息づかいが
その手前にあるホームベースには、サインが記されていた。
ありがとう藤井寺球場
317勝 草魂 鈴木啓示 No1
ADVERTISEMENT
藤井寺球場の息づかいが、そこには残っていた。
近鉄バファローズは、オリックス・ブルーウェーブとの球団合併で、2004年のシーズンを最後に、55年の歴史に幕を閉じた。
夏草や 兵どもが 夢の跡
藤井寺の街を歩き、野茂のネームプレートや、闘将・西本幸雄のユニホーム、仰木彬のポスターを見ながら、松尾芭蕉のあの有名な句がふと、脳裏に浮かんだ。
ここから、野茂英雄はメジャーへと羽ばたいていった。
閉ざされていた扉を、自らの信念を貫き通す形でこじ開けたことで、若き野球人たちは今、野茂の切り開いた“メジャーへの道”を辿って、夢の舞台への挑戦を続けている。
阿波野秀幸の述懐
阿波野秀幸は、野茂の輝きも、苦悩も、そして決断も、その間近で見続けてきた。
「今の形でのアメリカ挑戦とは、全く違う形で行ったもんね。あれがなければ、遅れていたんだろうね。ない、っていうことはないと思うよ。日本でメジャーに行きたい選手がいたら、必ず行ける時代になっただろうし、実際、今そうなっているし、いずれは来ていた。
野茂の挑戦が失敗に終わっていたら、多分、その後、伊良部(秀輝、ロッテからニューヨーク・ヤンキースへ移籍)とかが行けたかどうか、なかったかもしれない。あれだけの旋風を起こしたというのは、想定以上だったかもしれないね。行ってからは、野茂は凄かった。いろんな苦労もあったと思うけどね」



