革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
鈴木啓示と野茂英雄はなぜ反目したか…「お互い年取ったな」心の広い男・鈴木監督を一方的に断罪したくはないが「今は取材はしんどいのと違うか」
posted2025/06/13 11:06

他紙の記者に「やり過ぎやな」とたしなめられるような記事を出していた筆者にも、鈴木啓示監督は悠然としていたが……
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喜瀬雅則Masanori Kise
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KYODO
プロ野球の番記者には、数々の不文律があるのだが、その中でも特徴的なものの一つに、球団の番記者を務めた当時の監督には、その方が監督を退いてからも、会えば必ず『監督』と呼び掛ける、というものがある。それに対して、呼ばれた元監督の方も「もう、監督じゃないから」といった遠慮や言い訳などもしない。それが“当たり前”だからだ。
私にとって、鈴木啓示は「1994年の近鉄バファローズ」で、生まれて初めてプロ野球の番記者をしたときの監督だった。だから何十年経っても、現場でお見かけすれば、即座にご挨拶に駆け寄り、「監督」とお声がけさせていただくことになる。
鈴木啓示との最後の会話
「おー、喜瀬君。アンタも年いったな。もういくつになった?」
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2023年の日本シリーズは、阪神とオリックスの関西対決。鈴木は、所属する新聞社の評論のため、京セラドーム大阪の記者席に座っていた。
「56になりました。監督を取材していたのは、もう30年近く前です」
「そうやったか。お互い、年取ったな。体、気つけなアカンな」
その時に交わした会話が、記憶に残っている限りでは直近のものだ。その時、鈴木は76歳。年齢を感じさせない分厚い体は、監督時代と変わらない気がした。そして、その気遣いに、いつも若かりし頃の“勇み足”の原稿を思い出し、心が痛くなる。
ルーキー記者の頃の記憶
サンケイスポーツの記者になって5年目の1994年が、入社以来、希望し続けていたプロ野球の「番記者」としての第一歩だった。経験もコネもないルーキー記者だったが、やる気と図々しさだけは、なぜかしら存分に(?)あった。