革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「野茂英雄が行っていなかったら、道がないですよ」1994年の近鉄バファローズが生んだものとは…藤井寺の「夢の跡」に“彼らの息づかい”は今も
posted2025/06/27 11:04
ひとりの革命者を生みだした「1994年の近鉄バファローズ」。近鉄も、藤井寺球場もなき今でも、その息づかいが残る場所がある
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph by
Kazuaki Nishiyama
「1994年の近鉄バファローズ」を締めくくるにあたって、どうしても見ておきたかった場所があった。
天王寺でJRの大阪環状線を降り、近鉄電車に乗り換える。藤井寺は南大阪線沿線で、その始発駅になるのが阿部野橋だ。
ブライアントとの通勤のひととき
1994年、初めてのプロ野球番記者として近鉄を担当した時、神戸の自宅から電車を3本乗り継いで、藤井寺に通った。当時の主砲、ラルフ・ブライアントは電車通勤で、阿部野橋でよく、ブライアントと同じ電車に乗り合わせた。
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「ユーはどこから? えっ、神戸? ソー・ファー(So far=とても遠い)だね」
ちょっとした会話から、時には調子やバッティングの話もしてくれた。原稿の小ネタとして、車内での雑談は本当に役立った。
およそ15分。右手の窓から、藤井寺の駅の手前になると、球場が見えてくる。今はその場所に、四天王寺学園の7階建ての校舎がそびえ立っている。
野茂が立った、あのマウンドの面影すら、もうどこにも感じられない。
白球の夢
校舎の脇、正門の東側にあたる線路に面した場所に、白い玉砂利が敷かれた一角がある。
「近鉄バファローズ本拠地 藤井寺球場跡 1928-2005」
そのプレートがついた台座の上に、「白球の夢」と題されたモニュメントがある。大きなボールの上で、野球帽をかぶった少年が両手で顔を支えながら、遠くを見つめている。それは野球場のスタンドから、猛牛戦士が熱闘を繰り広げたグラウンドを見つめる姿だと、私は勝手に、そう解釈している。



