革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER

「何かあったのか、野茂?」「こんなの、考えられません」野茂英雄が激怒! “気遣いできるエース“阿波野秀幸が見た1994年の近鉄「衝撃の事件」

posted2025/05/16 11:00

 
「何かあったのか、野茂?」「こんなの、考えられません」野茂英雄が激怒! “気遣いできるエース“阿波野秀幸が見た1994年の近鉄「衝撃の事件」<Number Web> photograph by Naoya Sanuki

1994年当時はエースの座を野茂英雄に譲っていた阿波野秀幸だったが、野茂のことを気遣い、手助けしていた

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喜瀬雅則

喜瀬雅則Masanori Kise

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Naoya Sanuki

野茂英雄がメジャーに渡って30年。彼が切り開いた道が今、大谷翔平までつながった。だが、野茂の渡米はどうして可能になったのか? すべてがはじまった前年、1994年の近鉄バファローズの関係者たちを、当時の番記者が再訪。今だからこそ語れる証言で、「革命前夜」を描き出す巨弾連載! 一時代を築いたトレンディエースが語る「ある事件」とは——。〈連載「革命前夜〜1994年の近鉄バファローズ」第6回/初回から読む前回はこちら

 私が関西学院大の学生だったのは、1986年からの4年間。時はバブル経済の真っ只中だった。経済学部とはいっても、将来に役立つような資格を取るための勉強をしたわけでもなく、海外留学をしたわけでもなければ、教員免許も取得していない。そんなごくごく平凡な、モラトリアムを堪能していた大学生にも、好景気の恩恵は押し寄せてきた。

 4年生になると、毎日のように大学時代の先輩たちから自宅に電話があった。大手都銀や証券会社、世界的な商社に勤めているOBたちから「ウチ、どうや」。それこそ、肯定的な返事でもしていれば、即座に面接、そして内定へと至る流れだった。

 実際、私が所属したゼミでも、卒業前に配布された名簿に記されていた就職先は、名だたる銀行をはじめとした金融関係の名前がズラリと並んでいた。そんな中で、私だけ「サンケイスポーツ新聞」。両親、親戚、知人、友人、誰もが「なんで、そんなとこ行くの?」と質問のオンパレードだったことも記憶している。

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 当時を振り返ってみて、30年を超える長い月日を経た今なお、この“野球を追う世界”の最前線にいられるという、初心貫徹の自分をちょっと褒めてあげたい気持ちもする。

一世を風靡した「トレンディエース」

 さて、今回の話の前振りとはいえ、私事の思い出が少々長くなったことをご容赦下さい。

 スポーツを描く仕事に憧れていた大学時代、ちょうどその頃だ。「トレンディエース」と呼ばれた、パ・リーグの若きエースたちの存在が、プロ野球界で一世を風靡していた。

 阿波野秀幸は、その中心人物だった。

 近鉄の代名詞は「いてまえ打線」。関西弁の「いてまえ」を標準語に訳せば「おい、やってしまえ」とか「ボコボコにしてやれ」といったところか? 当時の近鉄の本拠地・藤井寺球場がある「南大阪」のエリアは、気性の荒い下町の香りが残る地域で、ここに「猛牛」というチーム名と「いてまえ」というフレーズが、ぴったりとハマっていた。

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