高校サッカーPRESSBACK NUMBER
「じつは俳優しながら…大工で家を2、3軒」“消えた高校サッカー得点王”大学中退後のトリッキーすぎる転身人生「世間って冷たいな、とも」
posted2025/02/06 11:02

かつて高校サッカー選手権得点王に輝いた江原淳史さん。サッカーとの距離感が離れた時期もあったという
text by

生島洋介Yosuke Ikushima
photograph by
Atsushi Ehara
大学で“チャラついてる”と思われないために
全国高校サッカー選手権の得点王、江原淳史が中央大サッカー部に入った当時、関東大学リーグには高校サッカー界のスターだった選手がたくさんいた。例えば、最後の選手権こそ逃したものの史上最強と謳われた2つ上の清水市商の面々だ。名波浩は順天堂大に、大岩剛は筑波大に進んで、彼らの1つ下の望月重良も続いた。
「それに武南で1学年上だった上野(良治/早稲田大)さん、中園(忠和/法政大、90年度の高校選手権得点王)さん、照井(真展/国士舘大)さんという小・中からの先輩たちと対戦できるかもしれないという楽しみがありました。当時の大学サッカー界には選手権を賑わせた大先輩たちがほとんどいたんですよ」
自らも高校選手権のスターとなった甘いマスクの“得点王”は、大学サッカー界でもダントツの人気。中央大の試合では西が丘サッカー場で入場規制がかかった。関東1部の強豪ながらどちらかと言えば地味な存在だったチームが、江原の加入とともに大きな声援を受けるようになる。黄色い歓声の先にいた新人は、どんな思いでプレーしていたのだろうか。
ADVERTISEMENT
「(実力を)見せたいという思いが強かったですね。なんかチャラついてると思われていたから。『ちゃんとサッカーできるんだな。だから点を取れたんだな』って見てもらわないと俺も困る。だから入学直後からめちゃくちゃ頑張りましたよ」
江原が入部した年の最上級生には、今年フロンターレの監督に就任した長谷部茂利がいた。桐蔭学園時代の活躍も記憶に新しい大先輩が、ふとした瞬間に「うまいじゃん、お前」と声をかけてくれた。いつも色眼鏡で見られ気張っていた江原は、この一言で自信を得て、安堵もしたという。
ケガで大学中退…「世間って冷たいな」
だが、新しいステージでの戦いは長くは続かなかった。高校3年の選手権前に負った頚椎の怪我のため、体のどこかが常に痺れていた。現在の基準で見れば、負傷後の精密検査やリハビリが不十分だったのだろう。痺れや痛みはピッチ上だけでなく日常生活にも支障が出る酷さだった。