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箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
「箱根の舞台で強豪をぶっちぎってやりたいと」川内優輝が池井戸潤の“箱根駅伝”最新長編を読んで去来した思い「学生連合は存続してほしい」
posted2024/09/07 11:02
text by
NumberWeb編集部Sports Graphic Number Web
photograph by
Takuya Sugiyama
2019年4月からはあいおいニッセイ同和損害保険と所属契約を結び、プロランナーに転向した川内さん。学連選抜を経験し、いまもプロとして活躍する彼は、『俺たちの箱根駅伝』をいかに読み、自身の経験を語るのか――。<全2回の後編/前編はこちら>
――高校時代から自身のストロングポイントを理解したうえで、実力もあった川内さんが、いわゆる箱根駅伝の常連校ではなく、学習院大学を選んだのはなぜですか?
川内 高校生のときは、中央大学や早稲田大学のような箱根の強豪校に行きたいという気持ちもありました。でも、2年生の1月に膝を痛めてから、3年生の間は怪我が続いてしまい、自己ベストを伸ばすことができなくて。他のインターハイ出場選手のところに複数の大学からオファーがある中、僕はグラウンドを歩いたり、整備をしているような状態でした。
普通だったら陸上を辞めてしまう状況だと思いますが、僕は小学1年生のときから陸上をやっていたので、辞めるという選択肢は浮かばず、「どうやったら楽しく走り続けられるか」と考えるようになりました。頭のどこかに、「4年間頑張って、1度くらいは学連選抜に選ばれるような選手になれたらいいな」という気持ちもありましたが、それは夢のまた夢という感じでした。
陸上とは関係なく進学先を決めた
学習院に決めたのは、陸上は関係なく、教育面やキャンパスの雰囲気が理由です。高校までとは全く違う環境で、あの森の中にあるようなキャンパスで勉強できたら、それまでの自分を変えられるんじゃないか、と。
なので、入学するまでは陸上部がどういうチームなのか、全く想像できていませんでした。入った瞬間に5000mの自己ベストでは僕がトップになったのですが、800mや1500mの中距離で速い選手がいたり、逆に20km、30kmの長距離に強いスタミナのある選手がいたり。先輩や練習に顔を出してくれるコーチやOBと練習するうちに、1年生の秋にはすごくタイムが伸びたんです。
高校では5000mでも15分を切れなかったんですが、入学半年で14分38が出て、箱根駅伝の予選会でも182番になりました。当時、100番以内で学連選抜が見えてくる、といわれていたので、もう少し頑張ったら本当に箱根を走れるんじゃないか、とその時点でまたギアが入りました。
――練習方法はもちろん、指導者との出会いによって大きく勝負の行方が変わる様が『俺たちの箱根駅伝』でも描かれていますが、川内さんご自身の師弟関係はいかがでしたか?
川内 学習院の監督、コーチ、先輩方のやり方はすごく合っていたのだと思います。基本的には自主性が重んじられており、選手達が自分でメニューを組み立て、監督とコーチがそれを微修正する。
監督もコーチも、OBのボランティアだったのですが、土日や平日の夜も顔を出してくれ、コーチは自らも走って背中を見せてくれました。大学入学までの指導者というのは、椅子に座って指示を出し、厳しく指導して……という方が多かったので、大学で出会ったコーチの姿は新鮮で憧れでしたね。
練習の仕方もガラッと変わりました。高校まではスピード重視で、当然のように週5で朝練をこなすようなハードな練習を積んでいました。しかし、大学では距離を走るための足作りの大切さを教えられ、朝練もなく、週2回のポイント練習で、設定も高校よりも緩いタイムでした。こんな緩い練習で強くなれるのかな、と思ったこともありましたが、このやり方が、怪我をせずに強くなるのにぴったり合っていたんです。1回に走りこむ距離は長くなりましたが、スピード練習の質も回数も減ったのに、秋には一気にタイムが伸びたので驚きました。高校時代は、県大会止まりだった僕のような選手が、箱根駅伝を2度も走ることが出来たのは、監督、コーチに出会えたから。とても感謝しています。
――川内さんは卒業後、埼玉県庁に入庁、「市民ランナー」として快挙を成し遂げてこられました。自分の力で走る、というやり方がすごく合っていらしたのではないかと思います。