将棋PRESSBACK NUMBER
「誤算があった」藤井聡太20歳が“王座19期連続獲得”羽生善治52歳を「刀折れ矢尽きる」状態に…大名人・大山康晴のような「受けつぶし」
posted2023/06/29 17:05
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph by
JIJI PRESS
第71期王座戦の挑戦者決定トーナメント準決勝で、藤井聡太竜王・名人(20=王位・叡王・棋王・王将・棋聖を合わせて七冠)と羽生善治九段(52)が6月28日に東京の将棋会館で対戦した。藤井は「八冠制覇」、羽生はタイトル獲得「100期」に向けて、ともに夢をつなぐ大一番だった。注目をにわかに浴びている王座戦の歴史、羽生の王座戦での抜群の実績、新旧の七冠対決となった藤井-羽生戦の激闘について、田丸昇九段が解説する。【棋士の肩書は当時】
王座戦の創設時に学士棋士が発想した「民主的棋戦」
王座戦の創設は1952年(昭和27)で、70年もの長い歴史がある。ただタイトル戦の開催時期が――春の名人戦と秋の竜王戦に挟まれているせいか――あまり知られていない印象がある。そこでまず王座戦の成り立ちについて説明する。
加藤治郎名誉九段の著書『昭和のコマおと』に、王座戦が創設された経緯が書いてある。その内容を抜粋で紹介する。
《戦後、日本経済新聞の将棋欄はとだえていたが、日経の役員から「よい企画があれば復活したい」と打診された。そこで考えついたのが、名人も四段も横一線に並ぶ方式。対局料も同じで、勝つごとに倍増していく。民主的という言葉に重みがあった時代なので、「機会は均等、稼ぎは実力で取る民主的棋戦」を謳い文句にするつもりだった。日経は賛成してくれたが、日本将棋連盟の内部に反対意見が出た。結局、棋戦の方式と対局料は、段位と順位戦のクラスを基準とする現行の形に決まった。花村元司九段が「王座戦」と命名した。囲碁のプロ棋戦も同じ名称となり、昭和27年に一緒に始まった》
加藤名誉九段は早稲田大学の出身で、当時の将棋界では珍しい「学士棋士」だった。王座戦の創設時には将棋連盟の専務理事を務めていた。前記の「民主的棋戦」は、大学出身棋士らしい斬新な発想だった。
なお、タイトル戦の主催者の中で、将棋と囲碁のプロ棋戦の名称が創設時から同一なのは、日本経済新聞社の王座戦だけである。
藤井にとって王座戦は“鬼門”だった
王座戦は、以前は非タイトル戦だったが、1983年(昭和58)の第31期からタイトル戦に格上げ。1984年には三番勝負が現行の五番勝負となった。続いては藤井竜王・名人、羽生九段の王座戦での足跡について紹介する。
藤井は四段時代の第66期王座戦に初参加し、1次予選・2次予選で計6連勝して挑戦者決定トーナメントに進出した。さらに深浦康市九段らに勝って2018年(平成30)に4強となったが、斎藤慎太郎七段に敗れてタイトル初挑戦の道は途切れた。