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秀吉の「中国大返し」に新説が登場。
信長用の”接待設備”が奇跡の理由?
text by
山田洋Hiroshi Yamada
photograph byYoshihiro Senda
posted2020/07/19 20:00
姫路城の前でポーズをとる千田嘉博教授。「中国大返しの新説」は旧兵庫城の発掘がきっかけだった。
1カ月かかるはずの距離を10日で。
千田教授が、当時の光秀と信長をめぐる状況を説明する。
「本能寺の変は、光秀として絶好のタイミングだったはずです。当時、柴田勝家は新潟で上杉勢と対峙しており、信長の三男でもある神戸信孝は四国征伐の途上。そして秀吉は備中高松城を攻め落とすため毛利軍と岡山で交戦中。つまり、当時の京都を中心とする畿内は、信長軍の主だった武将がおらず、ガラガラだったんです」
光秀は信長の命を受けて朝廷や京都の寺社を担当していた。接待工作をしたり、公家などにも顔の利く立場にいたので、京都市内の動きは手にとるようにわかり、信長の連れる軍勢が手薄なのもわかったはずだ。
さらに信長討ちが成功をしたあとも、ライバルたちは皆、遠くで敵と戦っている。信長の死の一報が届き、京都に帰ってくるまで1カ月は掛かると見込めば、京都で万全の体制を整えられると光秀は考えたに違いないと、千田教授は解説する。
「光秀にとって唯一の誤算だったのは、秀吉がわずか10日ほどで帰ってきたことです。十分な準備ができないまま現在はサントリーの工場がある京都の山崎で戦になってしまい、敗れた。230kmの距離を何万もの軍勢を引き連れてこんな短期間で引き返してくるなんて思わなかったはずで、秀吉はいかにしてそんな“奇跡”を成し遂げることができたのか、その謎に対して私は仮説を投げかけたんです」
毎日フルマラソンには寝食も必要。
水攻めの準備と外交交渉を着々と済ませていた備中高松城から、居城にしていた姫路城までの100kmに要したのはわずか2日ほど。毛利軍の追手に警戒しながら、自国領ではない土地を戻っていく最初のハードルを秀吉は切り抜けた。
「休憩や仮眠も挟みながら全行程230kmを実質6~7日で走破したことになります。少なくとも1万5000の軍勢が毎日フルマラソンをしたことになるわけですから、全員アスリートだったのか!? と思わされますよね(笑)。
一方で、その距離を移動するためには、食べることも休むことも必要です。さらにたどり着いた先で明智軍と戦うわけですから、京都に着いた時に心身ともにボロボロというわけにはいきません。今でいうモチベーションキープも重要なリーダーの仕事になってきます」
秀吉は、「ここが勝負所!」とばかりに部下にたらふく旨いものを食わせ、たまには酒も飲ませ、報奨金を先払いにするなどあの手この手で軍勢の士気を保ちながら、京都を目指していった。
「これまでは、こうした秀吉の卓越した人心掌握術と、足軽をはじめとした下っ端連中の根性だけで『中国大返し』はなし得たと思われていたんですけど、私は、合理的なシステムがあったんじゃないかと考えるようになったんです」