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秀吉の「中国大返し」に新説が登場。
信長用の”接待設備”が奇跡の理由?
text by
山田洋Hiroshi Yamada
photograph byYoshihiro Senda
posted2020/07/19 20:00
姫路城の前でポーズをとる千田嘉博教授。「中国大返しの新説」は旧兵庫城の発掘がきっかけだった。
信長軍独自の“接待システム”。
千田教授が新説を考えたきっかけが旧兵庫城の発掘調査(平成25年~27年)だった。現在は大型のイオンモール神戸南店がそびえ立つその一角には当時の石垣が再現されているが、旧兵庫城の規模感や立地環境に疑問が浮かんだという。
「旧兵庫城は神戸港にほど近い、今でも残っている運河沿いに立地しているんですけど、石垣が二重であったりと、秀吉の時代に拡張工事を行った形跡があった。そしてこれがとても広大で立派な城だったことがわかりました。ただ発掘当初は、なぜここに、これだけの城が必要だったのか不思議だったんです。
その後、中国大返しのルートとされる旧山陽道(西国街道)に点在する他の城址もリサーチすると、秀吉は城を食料などを備蓄するロジスティック拠点としていたのではないかと仮説が生まれたんです」
岡山市の東部にある沼城(備前亀山城)、姫路城、兵庫城、そして、兵庫県加西市にある小谷城などがロジスティック拠点として機能していたと先生は唱えた。
しかし、秀吉はなぜ点在する城に食料などをあらかじめ備蓄させていたのだろうか? 先生は信長軍独特の“接待システム”に目を付けた。
部下には手柄を独占させない。
本能寺の変から22年前の1560年6月。27歳の若き信長はわずか4000人ばかりの兵を味方に、2万5000人もの今川義元軍に戦いを挑み、勝利した。信長が一躍、歴史の表舞台に立った桶狭間の戦いである。
「信長は桶狭間の戦いのように、自ら最前線に立ち、兵を鼓舞して戦ってきました。しかし、天下人へ邁進する晩年、その戦い方は大きく変化していきます。その象徴が、武田家を追いやった甲州征伐です」
甲州征伐とは、信長の息子・織田信忠や徳川家康らが武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦のことである。
「最前線を部下に任せていた信長は、戦況がほぼ見えてきた頃に現れ、最後の手柄だけ持ち帰るようになっていました。つまり、部下が手柄を独占することを極度に嫌っていたわけです」