第96回箱根駅伝(2020)BACK NUMBER

[平成ランナーズ playback vol.2]
三代直樹「タフさと責任感が生んだ、無欲の快記録」 

text by

折山淑美

折山淑美Toshimi Oriyama

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photograph byHochi/AFLO

posted2019/11/21 11:00

[平成ランナーズ playback vol.2]三代直樹「タフさと責任感が生んだ、無欲の快記録」<Number Web> photograph by Hochi/AFLO

三代(右)は大学卒業後は2001年にカナダ・エドモントンで開催された世界陸上10000mに出場するなど、日本代表としても活躍。

3強の一角を崩せれば、と思っていた。

 8km過ぎの横浜駅前で先頭集団に追いついたが、集団はけん制し合う状態だった。しばらくは集団のペースに合わせ、呼吸を整えていた。

「トップでたすきを渡すためには、集団に付き合って走りのリズムを悪くするより、自分のペースで行った方がいい」

 そう考えた三代は、1kmも併走しないうちに抜け出した。それについてきたのは、駒澤大学の佐藤裕之(当時4年)だけだった。

 当時はY・K・K時代と言われ、山梨学大と神奈川大学、駒大が優勝候補で、順大の「J」は優勝候補としては名前すら出てこない状況だった。

 実際、その年の区間オーダーには1年生と2年生が3人ずつ入り、若い選手が多かった。そのため、三代自身も総合優勝は狙っていなかったという。三代は「何とか3強の一角を崩せればいいな」という思いで、「自分のところで先頭に立たなければいけない」ということだけを考えていた。

権太坂の上りは苦にならなかった。

 15km付近の権太坂を上り切るまでは、駒大の佐藤にピタリと付かれる展開。

 10kmの通過は28分50秒、15kmも43分40秒。決して区間新を狙えるようなペースではなく、この時点でも三代の頭に記録更新の文字は全く浮かんでいなかった。

「でも、権太坂の下りで佐藤くんを突き放すためにスピードアップしてからが速かったんですね。20kmまでの5kmを14分10秒くらいで行けましたから。元々自分は平坦を走るよりも坂が好きで、それがひとつのアクセントになってペースをあげられていた。だから、権太坂の上りはぜんぜん苦にならなかったですね。ただ、3年の時は下りで頑張りすぎてしまって足に来ていたんです。それで当時のアシスタントコーチに、下りでペースを上げても、しっかり体を休めるような走り方を指導されていたんですが、4年生の時はそれが出来たんです。そうして走りのリズムを変えられたのが、区間記録を出せたひとつの要因だったと思います」

 それでもさすがに20km手前からは、身体がきつくなった。

 横浜新道に入ると、沿道では応援の人垣が途切れ、いなくなる箇所もある。そこでは「最後まで持つのかな?」という不安も頭の中に入ってきた。

 三代は、2区の最後の3kmに関しては、「対処法が全くない」と苦笑する。上りと下りがあり、最後は上り坂になるという難コースは、精神力で乗り越えるしかない。だからこそ、そこまでは何も考えず、自分のリズムだけを重視して走ったという。

「4年生の時は、力はついていましたが、ラスト3kmで余裕があったかと言えば、それはないです。3年生の時は駅伝主将をやっていましたが、4年生ではチーム全体の主将でしたし、最後の箱根路だという想いが、自分を走らせてくれたのだと思います。横浜新道に入って直ぐの20kmの通過が、57分51秒だったという記憶はあるだけで……。そのあとの沿道で『区間記録を狙えるぞ』と言ってくれる人もいたけど、それが何のことなのか、キツさもあって全く理解できなかったですね」

【次ページ】 時計を止められないほど疲れ切った。

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