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21歳にしてモンゴルの王の風格か。
種も仕掛けもある、逸ノ城の躍進。
text by
阿部珠樹Tamaki Abe
photograph byKyodo News
posted2014/10/01 10:30
13日目には横綱鶴竜をはたき込みで下し、1973年の大錦以来となる新入幕での金星をあげた。場所後には殊勲賞と敢闘賞を受賞。
「突然現れた野生児」ではなくエリートコース。
乗馬で鍛えられたバランス感覚、遠くまで水汲みに出かけねばならないような過酷な生活環境、家の羊を守るために、オオカミと戦ったなどといったモンゴルでのエピソードは、逸ノ城の「野生の神話」を作り上げていくのに絶好の素材である。かつては日本でも「稲尾和久は漁師の息子で、櫓を漕いで腰が鍛えられた」といった話がまことしやかに語られたものだが、背景のスケールは逸ノ城がかなり上だ。
しかし、今場所の大活躍を「突然現れた野生児の怪物的進撃」と考えたのでは、たいせつな要素を見落としてしまうだろう。
逸ノ城は今場所でまだ入門5場所目だが、それまで4年間、アマチュア相撲の経験がある。高校相撲の名門、鳥取城北高校で3年間鍛えられ、高校横綱こそ獲り逃がしたが活躍して、卒業後は実業団選手権で優勝している。相撲界のエリートコースを歩んだ逸ノ城は決して突然湧いて出た怪物ではない。
体格に似合わぬ柔軟な取り口。
取り口も若さや馬力だけに頼ったものではない。192cm、199kgの体格を考えたら、突き押しで直線的に攻めるのが手っ取り早い出世の道である。かつてのハワイ勢、小錦や武蔵丸などは体格を生かした直線的パワーで番付を駆け上がった。
それに比べると、逸ノ城の取り口はもっと柔軟だ。立ち合いの爆発的なあたりが不足しているので、押し込まれたり、相手十分にくまれたりすることも珍しくない。それでも危なげなく勝ち星を重ねてきた。
印象に残る取り組みがいくつかある。ひとつは3日目の栃煌山との一番。逸ノ城は本来、右四ツ、左上手という組み手が得意なのだが、この時は相手十分の左四ツになってしまった。しかし、苦手の体勢でもあわてることなく攻めをしのぎ、下手からの投げを打ちながら右手で相手の首をひねり、崩してから寄り切った。千代の富士が全盛時代、しばしば見せた、首を押さえながらの上手投げを思わせたが、逸ノ城のは力を伝えにくい下手からの投げで、問答無用のパワーという点では逸ノ城が上回っていた。パワーの使い方が単純ではない。