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7年越しの絆。
text by
小齋秀樹Hideki Kosai
posted2004/12/16 10:25
「どうして全てを出そうとしないんだ!」
ドイツ語で何度怒鳴りつけたことだろう。
そのたびに、若者は「わかったよ」と頷いてみせるのだが、しばらくするとまた相変わらずのプレーを見せるのだった。
「スピードもあるし、テクニックも素晴らしい。運動量も豊富で、シュート力もある。いつ日本代表に招ばれてもおかしくない」
1994年7月、浦和にやってきたギド・ブッフバルトの目には、山田暢久だけがまるで別物のように映っていた。'97年10月にドイツへ戻るまで、山田の潜在能力への高い評価が変わることはなかった。
だが、ひとつだけ不満があった。
どんな試合でも、何をやるにしても、いつも自分の持っているものを出し尽くす。それがドイツ人である彼のメンタリティーだった。そんなブッフバルトには、山田は常に7、8割の力でしかプレーしていないように見え、それが歯がゆかった。
山田の持つ能力を全て引き出したい。監督として戻ってきたブッフバルトは、そのために山田に責任を与えるべきだと考えていた。
2004年1月末、ブッフバルトは通訳の山内直に頼み、山田へ電話をかけた。山田は日本代表の合宿で宮崎に滞在中だった。
「監督が言いたいことがあるそうだから、ちょっと代わるよ」
電話を受け取ったブッフバルトは、日本語で伝えた。
「キャプテン、オネガイシマス」
通話口の向こうは静かだった。驚いているのだろうなとブッフバルトは思った。一呼吸置いた後、山田の声が聞こえた。
「はい、わかりました」
山田には、キャプテンとなることに迷いはなかった。年齢やキャリアを考えると、そういう役割も然るべきなのだろうと山田は思っていた。それに、ゲームキャプテンならば今までにもこなしたことがある。もちろん、多少のプレッシャーはあった。浦和は昨年、初タイトルとなるナビスコカップ獲得に成功した。その翌年に自分がキャプテンとなり、もし何のタイトルも獲れなかったら。
だが、それ以上に嫌だったのは、キャプテンとして公の場で話す機会が増えることだった。「人前で喋るの、ホント苦手なんだよな」。それが、最も気懸かりなことだったのだ。
4月29日、ナビスコカップ予選リーグ、対清水エスパルス戦。0-2で敗れたこの試合、山田は後半35分にベンチへと下げられた。日本平での試合を終えたチームは、浦和に戻ることなく、3日後の試合の開催地・広島へと移動した。
ブッフバルトは悩んでいた。主将にした山田が期待に応えてくれていなかったからだ。今の浦和には、ミスターレッズと呼ばれた福田正博はもういない。だからこそ、チームで一番の古株である山田に、福田の跡を継ぐ選手になってもらいたかった。プレーでチームを引っ張り、レッズを象徴するような選手に、と。それが、彼をキャプテンに指名したもうひとつの理由でもあった。
だが、その真意が通じているとは言い難かった。山田のパフォーマンスは求めるレベルに明らかに達していなかった。メンバーから外すべきなのか。
キャプテンである彼を外すことは、他の選手の入れ替えとは意味が違う。そして、彼をキャプテンに指名したのは、他ならぬブッフバルト自身だった。しかも、山田は日本代表に定着しかけた矢先に、無断外出という不祥事で代表から外されたばかりでもあった。
長い時間、ブッフバルトは悩んだ。そして、賭けに出ることにした。
滞在先のホテルで、チーム全員で散歩をしていると、山田はブッフバルトに呼ばれた。
「もっとキャプテンらしいプレーをしてもらいたかったんだ。だから、次の試合は外すつもりだ」
納得はいかなかったが、「わかりました」と応えるしかなかった。
次節のサンフレッチェ広島戦。山田はベンチに座ることも許されず、メインスタンドから、悔しさにまみれて試合を見ていた。
「あぁ、俺はキャプテンなんだな」
その責任を初めて山田は痛感していた。
以降の3試合でも、山田はベンチ入りはできたが、出場時間は合計約30分に留まった。
その間、山田はブッフバルトに呼ばれ、試合のビデオを見せられた。監督が自分に求めるものを説明され、自分はそれを満たしていないと告げられた。
「もう一回、やり直そう。これまで頑張っていたつもりだったけど、キャプテンの俺はもっとやらないといけないんだ」
2ndステージが始まり、黒星なしの浦和にアクシデントが起きたのは、9月18日。第5節アルビレックス新潟戦、山瀬功治が左膝前十字靭帯を断裂する。ブッフバルトは即座に平川忠亮をピッチへ送り出した。ただし、山瀬の代わりとして、ではなかった。
山瀬のポジションに入ったのは山田だった。トップ下の経験は少なかったが、ブッフバルトに迷いはなかった。それだけ、山田の能力に信頼を置いていたのだ。その後も、トップ下が必要なフォーメーションの時には、山田をそこに配した。
第7節、2位ガンバ大阪との直接対決。先制されるも、山田がFKから同点ゴールを決め、その後勝ち越しに成功した。
続く第8節、2位に浮上していたジェフ市原との一戦。後半18分、スローインを受けた山田はキックフェイントで相手をかわすとドリブルでペナルティエリアへ向かった。ゴールラインと平行にドリブルで中へと突き進み、ゴールエリアまで侵入すると、マイナスのパスを送った。そこへ味方が走り込み、シュートを打とうかという寸前、クリアされる。
勢い余ってゴールのサイドネットへ達していた山田は、チャンスが潰えたのを見て、目の前のサイドネットを両手で叩いた。指に絡みつく網を振り払い、踵を返す。
山田の姿に、国立競技場を埋めたサポーターはどよめいた。
あのヤマが本気になっている、と。
この市原戦で2-0と突き放す追加点を挙げたのは、永井雄一郎だった。
永井には敬愛するストライカーがいる。
ガブリエル・バティストゥータ。元アルゼンチン代表、イタリア・セリエAで得点を重ねたゴールゲッター。躍動感に溢れ、パワー漲る彼のプレーが永井は好きだった。
人は自分にないものに惹かれるものだ。
永井はバティのプレーの中に、自分にはない強さを見出していた。それは、彼が長い間欲していたものでもあった。
浦和でのブッフバルト現役最後の年となる― '97年春、18歳と2カ月弱でデビューした永井は、そのスピードとドリブルを武器に、日本代表DFをあっさりと抜き去り、鮮烈な印象を与えた。だが、独特なリズムのドリブルが周知のものとなり、当たりに弱いことを気取られたシーズン終盤には、自分のプレーをさせてもらえない状態になっていた。
その後も、持てる才能を発揮できずにいた永井はずっと考えていた。
「当たり負けしない強さが欲しい」
何とかしたいと思いつつ、何もできないでいたのには、もちろん理由がある。強さと、永井の特徴であるスピードは共存しがたいものだからだ。パワーのための筋肉増強は、スピードの足枷となることが多い。肉体改造の結果、持ち味を損なった選手の実例も永井は見聞きしていた。
(以下、Number617号へ)