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男子400mリレー 思いと歴史をのせたバトン。
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byShinji Koyama/JMPA
posted2008/09/04 19:03
8月22日、午後10時10分が近づいてきた。
「僕が途中で止まるんじゃないか、バトンを渡せないんじゃないか」
先陣を切る塚原直貴の心に不安が渦巻いていた。100mでは今の力を出し切れた。だがメンバーの中で最年少の23歳。これまでの大会とは違う雰囲気、しかもメダルは手の届くところだ。心が押しつぶされそうだった。
スタートが迫る。不意に不安が消えた。初めて味わう、9万人の大観衆に埋まったスタジアムの雰囲気は最高だった。自分がかかえている不安なんて小さなものだ、そう思えた。
「今できる足の回転数を思い切ってあげて、末續さんに突っ込んでいく」
ピストルが鳴り、塚原は駆け出した。
バトンは末續慎吾に渡った。
末續にとって、北京五輪は何年も前から、それこそアテネの前から目標としてきた大会だった。だが勝負を懸けていた200mは1次予選で終わった。
「やるべきことはやったんですが……」
記者に対し、そんな言葉しか出なかった。
でもリレーに引きずってはいけない。決してあきらめたくない。そう誓っていた。そして先輩たちの作ってきた歴史をつなぎたい。
バトンを手にすると、いつもの低い姿勢から鋭く飛び出した。
末續からのバトンを受け取った高平慎士は朝原宣治へと駆け出した。
高平にとって、北京は4年前の雪辱を果たす場だった。20歳で出場したアテネ五輪は400mリレーの三走として4位入賞を果たしたが、200mで予選落ちに終わった。
無念さを、北京を前にこう表した。
「アテネでは何もしないで帰ってきました」
迎えた北京の200mは、2次予選進出にとどまった。残るはリレーのみ。リレーチームに入って4年。「朝原さんと走るのも最後かな」という思いに駆られた。朝原さんに気持ちよく走ってほしい、高平はそんな一心だった。周りには見向きもしなかった。
高平からのバトンを待つアンカー、朝原は決勝を前に、大きなプレッシャーにさいなまれていた。100mは思ったようにタイムが伸びなかった。2次予選敗退。アンカーであること、メダル圏内にいること、そして「あと一本走れるのか」という不安。でも絶対やれる、そんな気持ちも心にあった。レース前のアップでは調子のよさも感じていた。
「楽しむことを忘れないでリラックスしていこう」。そう心に誓った。
高平からバトンが手渡された。ジャマイカが先頭にいた。トリニダード・トバゴに置いていかれたのが見えた。
これ以上、下がりたくない。ホームストレート、朝原はゴールへ向かって走った。
ゴールを駆け抜けた朝原は、追いかけてきた高平とともに電光掲示板をみつめた。「日本」の文字が飛び込んできた。3着。その瞬間、すべてから解放された気がした。
塚原が、末續が集まってきた。たくさんの寄せ書きの書かれた日の丸をまとい、場内をまわる。いつしか優勝したジャマイカ、2着のトリニダード・トバゴと一緒のウイニングランになっていた。ジャマイカのウサイン・ボルト、アサファ・パウエルが隣にいた。観客席では、為末大が泣いていた。
2004年、アテネ五輪のリレーのメンバーは、土江寛裕、末續、高平、朝原だった。
のちに土江は引退し、塚原が一走を引き継いだ。4人は、'07年大阪世界選手権で走り、その後もチームとして意識してきた。昨年引退を決めていた朝原を「また一緒に走りましょう」と3人で誘い、北京で4人は再び走った。それぞれの気持ちをのせたタイムは38秒15、予選から0秒37縮め、ついに世界の扉をこじ開けた。
幸運はたしかにあった。アメリカ、イギリスなど強敵は失格で決勝にその姿はなかった。
だが幸運を生かしきったのは、少ない可能性を信じ、0秒01でも縮めようと研磨してきた努力あればこそだった。今大会、いくつものチームが失敗したバトンパスで日本が先んじているのも、その一つに数えられる。
そして朝原の言葉にも実感がこもっていた。
「今回のメンバーだけじゃない、歴代のリレーメンバーにも感謝しないといけない」
そういえば、男子短距離副部長としてリレーの戦略を練り上げ、メダル獲得に寄与したのは、アテネの第一走者、土江だった。