博多の人・王貞治BACK NUMBER
「僕を4番から外してください」ホークス小久保裕紀“選手人生最大の危機”に王貞治は何と答えたか…「あれで逃げていたら、次も逃げていた」
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2026/08/07 06:00
1999年、初優勝に向けて突き進む王ダイエーでひとり大不振に陥っていた小久保裕紀に王がかけた言葉とは?
あのスランプを乗り越えられたから
「全然、打てなかったですからね。でも、振り返ってみると、僕の成長のために4番を打たせ続けたわけじゃないんですよ。他に入る選手、4番にすることで、その選手の状態が落ちてしまうくらいなら、そのままで今、ずっと勝っているチームの4番はいじらない方がいいという考え方みたいなんですけど、それ以上に、僕は個人的にはやっぱり、あれで逃げていたら、次も同じ手法で逃げたと思うんですよ。
例えば、スタメンをちょっと外れてとか、ちょっと10日間、出場選手登録を抹消してもらって、2軍でちょっと状態を上げてからとかを選択したと思うんです。でも、振り返ってみたら、1999年以上のスランプはなかったというか、スランプと感じなかった。
そういう点では、やっぱり1999年の苦しみ、最終的には日本一になりましたけど、個人としてはめちゃくちゃ苦しいシーズンだったんですが、それはもう後々、自分の中の困難を乗り越えるときに『あれ』を乗り越えられたんだから、今のこのスランプ、打てないなんて、かわいいもんや、と思えるまま、引退できたんです。やっぱり、最初に高い壁を真正面から乗り越えるというのは、大事なことなんやというのを学びました」
巻き返した小久保の自覚
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その葛藤に苦しみながら、小久保は球宴後の後半戦、3割を超えるハイアベレージで挽回し、最終的には打率.234、24本塁打、77打点。「悪いですよ」と振り返ったトータルの成績だが、前半戦が1割台の大不振だと考えれば、後半の巻き返しはさすがだ。
その年、9月25日にリーグ優勝が決まるまでの129試合中、小久保が「先発4番」を外れたのは、開幕71試合目の6月30日、翌7月1日、同10日、11日の4試合のみ。135試合のうち126試合、さらに日本シリーズの全5試合、4番は小久保だった。
王から課された“主砲の心構え”を体現することになった1年が、チームリーダーとしての自覚を、さらに高めていくことになる。
〈つづく〉


