博多の人・王貞治BACK NUMBER
「ダイエーは経営が苦しくなっていたのに…」王貞治ホークス“雌伏の4年間”にまかれていた種とは「僕を、見捨てなかったということだよね」
posted2026/07/10 11:10
生卵事件の屈辱を受けるなど、雌伏のときを過ごした4年間。しかし徐々に王の勝利への意識が新たな選手たちに浸透していった
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph by
Kazuaki Nishiyama
その“屈辱の夜”の後、王ダイエーはしばらく踏ん張っている。
5月のその後の戦いは6勝7敗1分け、6月は13勝11敗、7月は10勝6敗と2カ月連続勝ち越し。しかし、9月以降は、9連敗を含む4勝14敗1分け。福岡への本拠地移転後では3度目の最下位に終わり、1年目の5位からも順位を下げた。
ただ、思うに任せないチームの低迷ぶりの最中でも、瀬戸山隆三にはわずかながら“光明”も見え始めていたという。
秋山と工藤を中心とした結束力
ADVERTISEMENT
「中内(㓛)さんも気を遣っていた。王さんも辛抱した。ホント、やっぱり若い選手たちが入って来て、小久保(裕紀)からかな? 城島(健司)、井口(資仁)、松中(信彦)、この辺りから、ホントの血の入れ替えができてきた、というところです。秋山(幸二)とか工藤(公康)はそれをバックアップしていってくれるし、足を引っ張ったりしない。すごく結束力ができてきたと思いますよ」
秋山は1993年オフに西武とのトレードで、工藤は1994年オフにFA移籍でダイエー入り。強い西武の“エキス”を持つ2人を投打の中心に据え、この2人の背中を追い掛けることで若き選手たちも意識を高め、力をつけていく。
王を監督に招聘した後、フロント業に専念していた「球界の寝業師」こと、根本陸夫が作ろうとした“強いチーム”の青写真が、それだったのだ。
ドラフト戦略を振り返っても、根本は決して、短期的なビジョンでの補強をしていなかった。王の監督就任直後の1994年1位だった城島が正捕手に定着したのは3年目の1997年。1995年の1位が南京都高の右腕・斉藤和巳(現ソフトバンク2軍監督)で、後に2度の沢村賞を獲得、球界を代表する大エースになるのだが、初の2桁勝利となる20勝を挙げ、一気に飛躍を遂げたのは2003年、プロ8年目のことだった。

