博多の人・王貞治BACK NUMBER
「僕を4番から外してください」ホークス小久保裕紀“選手人生最大の危機”に王貞治は何と答えたか…「あれで逃げていたら、次も逃げていた」
posted2026/08/07 06:00
1999年、初優勝に向けて突き進む王ダイエーでひとり大不振に陥っていた小久保裕紀に王がかけた言葉とは?
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph by
Kazuaki Nishiyama
1995年シーズン、福岡ダイエーホークスの監督に就任して以来30年以上。王貞治の博多での野球人生は、もはやジャイアンツでのそれよりも長くなった。今や常勝軍団となったホークスだが、ここに至る道のりは決して平坦ではなかった。1999年、チームの好調をよそに、4番打者だけが不振を極める。〈連載「博多の人・王貞治」第17回/つづきを読む〉
4月を11勝9敗と勝ち越すなど、1999年、5年目の王ダイエーは順調な開幕ダッシュを見せていた。その順調な歩みの中で、主砲・小久保裕紀が一人、苦しみ続けていた。
小久保は、プロ野球界を襲った「脱税事件」に関わったことから、1998年は開幕戦から8週間の出場停止処分を受けていた。復帰後も1カ月足らずで右肩を痛めると、右肩関節唇損傷で手術を受けるなど、わずか17試合の出場に終わっていた。
再起をかけた1999年。「4番・サード」が小久保の“不動の座”となる。しかし、右肩の違和感が長引いたまま迎えた6年目はシーズン序盤から、打率1割台で低迷する。
僕を、外してください
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「オールスターまで、もう全くです。野球人生の中での一番のスランプ、と言っていいのか分からないですけど、それが1999年の前半戦です。後にも先にも、あれより高い壁はなかったですね。あれが高すぎたんで、乗り越えたかどうか分からないですけどね」(小久保)
チームは首位争いを繰り広げていた。そのアンビバレントな状況が、小久保の心中を、さらに乱すことになる。
俺がいない方が、チームはもっと勝てるんじゃないのか。
27歳の若きチームリーダーは、意を決し、王のいる監督室のドアをノックした。
「僕を、4番から外してください」
4番打者が、自らギブアップ宣言したのだ。
「僕が4番であったら、足を引っ張っているから、という思いだったんです」
その小久保の直訴を、王は一喝した。

