革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「お前、全然アテにされてないぞ」1994年近鉄主力と首脳陣の間の“微妙な風”と“真逆の野球観”…「野茂英雄はずっと怒っていました」
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKoji Asakura
posted2025/05/30 11:01

鈴木啓示監督ら首脳陣と野茂たちは調整法から野球観まで対立した。そして1994年の主力選手たちは次々と流出していく
野茂君にしても、山崎(慎太郎)君にしても、彼らはもっともっとようなるで、という気持ちで見ていたので「練習は不可能を可能にする」ということを実感して欲しかった。
ワシが一番びっくりしたのは、あの当時の連中が野球を楽しくやりたいと言ったことやね。楽しくやれて、高い給料をもらえるのならばこんな幸せなことはない。私らなんて、引退した時にホッとした。食べること、鍛えること、全てが野球に通じていたものから逃れられる時がきた言う思いでね。(以上抜粋。カッコ内は筆者が挿入)
この先もきっと、野茂と鈴木が互いに理解し合えることはないだろう。野球担当1年目のルーキー記者にも、そうした感情のすれ違いのようなものが常に感じられた。
野茂はずっと怒っていた
「あの状況で、モチベーションを上げるのは相当きついと思うよ」
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佐野重樹(現・慈紀)も、かつての僚友の心境をそう慮った。
野茂の投げる球を、それこそ体を張って受け止め続けてきた捕手・光山英和も、幾度となく、監督・鈴木啓示への不満を、野茂から聞かされていたという。
「開幕の件で、(9回途中で)代えられたことに対して、野茂はずっと怒っていました。もう、忖度も何もあったもんじゃなかったですね」
ここでは自分のやりたい野球はやれない
開幕戦での途中交代、2軍落ち直訴、191球完投、右肩痛。どの事象を取っても、そこには野茂と鈴木の“信念の対立”が見え隠れした。
もっと追い込め、もっと苦しめ。その先に、喜びがあるんや。
気分よく、楽しく、仲間と野球を楽しみたい。その先にある、もっと大きな喜びを、仲間たちと、追いかけていきたい。
昭和と平成。野球とベースボールの違いだという単純な色分けで2人の信念を解釈するのは簡単だろう。しかし、その“もつれ”は、抜き差しならぬところにまで来ていたのだ。
ここでは、もう、自分のやりたい野球はやれない——。
その純なる思いが、近鉄を出たい、日本ではやりたくない、ならばメジャーへ、という三段論法的な発想へと飛躍していくのに、それほど時間はかからなかったのだろう。
〈つづく〉

