革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「お前、全然アテにされてないぞ」1994年近鉄主力と首脳陣の間の“微妙な風”と“真逆の野球観”…「野茂英雄はずっと怒っていました」
posted2025/05/30 11:01

鈴木啓示監督ら首脳陣と野茂たちは調整法から野球観まで対立した。そして1994年の主力選手たちは次々と流出していく
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph by
Koji Asakura
1994年の近鉄は、7月に17勝5敗、8月も16勝7敗1分けと、野茂英雄不在の中、真夏の大反攻を見せたが、最終的には68勝59敗3分けで、オリックスと勝ち数、負け数、引き分け数まで同数での2位タイに終わった。5年連続でパ・リーグを制覇した西武とのゲーム差は7.5だった。V奪回を期する95年は、監督の鈴木啓示にとっては3年目。まさに勝負の年でもあった。
米田哲也のコーチ就任
新たな投手コーチに、鈴木より9歳年上、通算勝利でも鈴木を33勝上回る350勝を挙げ、そのタフネスぶりから「ガソリンタンク」の異名を取った元阪急の大エース・米田哲也が就任した。鈴木は「投手の大先輩。言わなくても感覚は同じや」と、あえて年上の大物コーチを招聘した理由を力説した。
「何でも“込み”を入れよう。投げ込み、走り込み。勝つため、長くやるためには、最低限こうやるべき、ということがある。勝ってきた人は、こういうことをしてきたから勝ってきた。それを分かったときが、近鉄のピッチャーのスタートラインや。
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ピッチャーの方で結果が出ていないのは、はっきりしとるんや。ここらあたりで、ヨネさんの言うてることを『なるほどな』と思ってくれたら、スタートになるんや」
煎じ詰めれば「もっと練習しろ、そして投げろ」という“鈴木イズム”の遂行だ。
秋季キャンプの異変
野茂は右肩の治療とリハビリに専念するため、94年10月下旬から行われる秋季キャンプには不参加が決まっていた。
その“新体制初キャンプ”に先立って行われていた藤井寺球場での秋季練習中に発表された日向キャンプのメンバーに、阿波野秀幸も当初、入っていなかった。