革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
野茂英雄が「俺、アメリカ行けるから」30年ごしの証言で“決定的文書”の存在が明らかに…野茂と団野村が突いた“盲点”「任意引退」のウラ側
posted2025/05/30 11:02

野茂は団野村(右)を代理人として交渉に臨み、野球協約を読み込んで決定的な盲点を見つけだした
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph by
KYODO
野茂英雄がメジャーに渡って30年。彼の渡米はどうして可能になったのか? すべてがはじまった前年、1994年の近鉄バファローズの関係者を当時の番記者が再訪し、「革命前夜」を描き出す。対立が先鋭化する、野茂と球団の契約更改。そこで噂されていた、ある“決定的文書”の存在が、30年ごしで証言される——。〈連載「革命前夜〜1994年の近鉄バファローズ」第13回/初回から読む/前回はこちら〉
1994年オフに近鉄を去ることになった阿波野秀幸も、後輩・野茂英雄の置かれた状況を危惧していた。
メジャーというより、野球を続けるため?
「野茂に関しては、ちょっと八方ふさがりになってしまって、野球を続けるためにはどうしたらいいか、っていう選択だったと思うよ。プロの世界に入って、優勝したい。俺もそうだったんだけど、ビールかけで喜び合っているああいう姿を見て、一度経験してみたい。それをひたすら、純粋に思っていた人間が、なんか、大人の事情というか、そういうところにちょっと、閉ざされてしまったというところは、すごく苦しい部分じゃなかったのかな。
野茂は、メジャーに憧れはあったと思うんだけど、ただ、そこを望んでいったわけじゃなくて、好きな野球を続けるためには、その道しかないんだ、というところでの選択だったんじゃないのかな?」
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今回、取材に応じてくれたかつての僚友たちの証言を、すべてご紹介するだけの紙幅がないが、この阿波野の証言と同様の内容は、ほかの僚友たちも異口同音に強調していたということを付記しておきたい。
ある“決定的文書”
「多分、あのとき、一番近くにおったのは俺。だから、事の顛末も全部知ってるよ」
そう語った佐野重樹(現・慈紀)に、私がどうしても確かめたかったのは、この文書を巡って、日米の球界が揺れ動いた「任意引退同意書」の存在だった。
「うん、それも聞いたよ」
その文書が、野茂にはメジャー挑戦へのパスポートとなり、近鉄球団にとってはエースを手放してしまうという“命取り”になったのだ。