革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「お前、全然アテにされてないぞ」1994年近鉄主力と首脳陣の間の“微妙な風”と“真逆の野球観”…「野茂英雄はずっと怒っていました」
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKoji Asakura
posted2025/05/30 11:01

鈴木啓示監督ら首脳陣と野茂たちは調整法から野球観まで対立した。そして1994年の主力選手たちは次々と流出していく
阿波野は、米田から「なんで秋のキャンプのメンバーに入っていないんだ?」と声を掛けられたという。
「全然、元気なんですけどね」「じゃあ、俺が掛け合ってみるから、来いよ」
阿波野の電撃トレード
米田の推薦を受け、阿波野は10月22日に前田泰男球団社長、足高圭亮球団本部長と会談の場を持った上で、秋季キャンプへの参加が決まった。トレードの噂が絶えなかったその時期に行われた球団首脳との直接会談とあって、前田球団社長にその“真意”を確かめた当時のメモも、私の手元に残っていた。
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「引き取り先だとか、そんな話やないで。そんなもんが決まったら、キャンプに行くかいな。米田君が『見たい』と言うし、ワシも『見て欲しい』っていう気持ちが当然ある。だから『キャンプに行って頑張れ』と激励したんや」
阿波野は、10月28日に日向へ合流した。しかし、キャンプ途中で大阪に呼び戻されると、前田との会談からわずか16日後、11月7日に巨人・香田勲男との交換トレードを通達されることになる。
「俺も、望んでいたわけじゃないんだけど、やっぱり、このままじゃ尻すぼみになってしまうという雰囲気は、自分でも感じていたんだ。でも、何かね、やっぱり寂しい1年ではあったよね、94年のオフって」
相次ぐ主力選手の流出
阿波野が明かした寂寥感は、当時の近鉄で相次いだ主力選手たちの流出が、その“源”にあったようだ。
1983年ドラフト1位の左腕・小野和義は、阿波野がダブルヘッダーの2試合ともリリーフ登板した、伝説の1988年「10.19」の初戦に先発、7回3失点と踏ん張ったことで、優勝への夢をつないでいる。86年から4年連続2桁勝利を挙げながら、89年オフに左肘手術。91年に12勝を挙げてカムバック賞を受賞しているが、鈴木政権1年目の93年オフに自由契約。その後、入団テストを受けて西武に移籍している。
野手陣のリーダー的存在だった金村義明は、阿波野の移籍と同じ94年オフ、FA権を行使して中日へ移籍。優勝した89年にベストナイン、その巧みなリードに定評のあったベテラン捕手・山下和彦も94年オフ、コーチ就任を打診されたがこれを拒否、日本ハムへ移籍して現役を続行した。