革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
野茂英雄「191球16四球で完投」事件はなぜ起きた? 鈴木啓示監督の“罰投”説にチームメイトが明かす“エースの気概”「野茂は意地でも投げるよ」
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKYODO
posted2025/05/16 11:03
1994年7月1日、野茂は16四球を出しながら191球の完投で7勝目を挙げる。この「事件」は何を残したのか
僚友・佐野重樹(現・慈紀)も、こう証言する。
「やっぱり、野茂もフラストレーションがたまっていたから、意地でも投げるよ。でもこっちにすれば、変なところで安心感があるというのかな、野茂は投げられるんよ。191球でも、投げろといったら投げるんよ」
開幕戦は交代したのにね
その“191球の激投”を後押しするかのように、石井浩郎は9回にダメ押しの3ランを放っている。くしくもあの開幕戦と同じ「3ラン」だった。
ADVERTISEMENT
「ホント、その試合、西武球場でしょ? やたら長いし、16も四球を出して、よく勝ちましたよね。でも、開幕戦は代えたのに、なんで、その試合、代えないんだろね」(石井)
その皮肉交じりの述懐は、正直なところ、私も同感だった。
今なら、一人の投手に「191球」を投げさせた監督は、間違いなく世間から大バッシングを浴びるだろう。しかし、当時はまだ、独自の調整法を貫き続けている野茂に、鈴木啓示がある意味での“お灸を据えた”というニュアンスで報じる向きすらあった。
あれは「見せしめ」だったのか
1試合、一人で191球というのは、メジャーではありえないという識者の声にも、ここは日本なんだという反論すら、まだ“成立”するような時代だった。
それでも、開幕戦、2軍落ち騒動、そして191球という一連の流れを見ると、メディアはどうしても、鈴木と野茂との確執、懲罰、見せしめだと決めつけ、そのうがった見方で、原稿を書いてしまう。
その“野茂の191球”を彷彿させるような出来事が、22年後にも起こっていた。
〈つづく〉

