革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「そのことは、改めてお話しします」野茂英雄“2軍落ち直訴”の噂に本人を直撃も…31年後に阿波野秀幸が教えてくれた答え「あれが決定的だった」
posted2025/05/16 11:02

取材に対応する、現役時代の野茂。1994年、事件の噂を聞いた筆者も本人を直撃すると…その返答は意外なものだった
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph by
Takahiro Kohara
佐野重樹の記憶
佐野重樹(現・慈紀)の気持ちも、晴れなかった。
当時、プロ4年目。それまでの3年で計112試合、この1994年も最終的には47試合に登板して8勝4敗2セーブ。翌95年にはリリーフ登板のみで10勝4敗6セーブ、96年はキャリア最多の57試合登板を果たし、そのオフには中継ぎ投手として初の「年俸1億円」に到達。セットアッパーとして、94年当時はすでに近鉄のブルペンに不可欠の存在だった。
ただ、現役引退後、野茂英雄との間での個人的な借金トラブルから、かつての親友に返済を求めて訴訟を起こされた。持病の糖尿病の影響から、24年5月には右前腕部を切断する手術を受けるなど、今も長い闘病生活が続いている。
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今回、この「1994年の近鉄バファローズ」を描くにあたって、退院直後だった佐野は快く、取材を了承してくれた。自らの現状に加え、この“博多の早朝”に関する出来事について尋ねると、笑いながら「あったよ」とうなずき、当時の記憶を丹念に辿ってくれた。
直談判に同行を申し出るも…
野茂と小池秀郎と一緒の場にいた佐野は、2人が宿舎に戻るときに「もう一軒、知り合いのところに行ってくるから」と、そこから単独行動を取ったという。若さゆえのタフさは恐るべしだが、佐野はだから、野茂と小池がコーチ陣と鉢合わせしたその場にはいなかったのだ。
怒りの野茂が、鈴木啓示の監督室へ直談判に行く際、佐野は「俺も行くわ」と行動をともにしようとした。しかし野茂の方が「お前、おらんかったからええやん」と止めたのだという。