革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
野茂英雄「191球16四球で完投」事件はなぜ起きた? 鈴木啓示監督の“罰投”説にチームメイトが明かす“エースの気概”「野茂は意地でも投げるよ」
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKYODO
posted2025/05/16 11:03

1994年7月1日、野茂は16四球を出しながら191球の完投で7勝目を挙げる。この「事件」は何を残したのか
野茂は、日本での5年間で134試合に先発しているが、うち、1試合で150球以上を投げたことが26試合あり、10球ごとで区切ると最も多いのは140球台の35試合。191球は当然、野茂にとっても“最多球数”なのだが「アイツは全然、それくらいは投げるんです。スピードも落ちないですから」という光山の証言も、こうしたデータがしっかりと裏付けている。
最下位から”大逆襲中”だったチーム事情
191球完投時の試合展開を見ると、西武に1回、押し出しを含め2点を先制されたが、近鉄は3回、同点に追いつき、6回に勝ち越し、7回に2点を追加している。この時点でもう、継投に入っても大丈夫なはずだ。
ただ、近鉄はその頃、未曽有の大逆襲のゾーンに入っていた。
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6月16日の時点で、19勝34敗1分けの最下位。移動日を挟んで同18日、当時の近鉄・上山善紀オーナーの故郷である新潟・長岡で行われた日本ハム戦で、野茂が7回を無失点、146球を投げて勝利投手になると、そこから同28日まで7連勝。
さらに7月に入ると、5連勝、3連勝、3連勝、そして7月26日から8月10日まで、近鉄球団史上最大となる「13連勝」で首位に立つという驚異の快進撃。だから、7月1日はそれこそ、夏の逆襲劇の真っ只中だった。
エースの気概を持つ男
勝ちゲームも増え、ブルペン陣の疲労も積み重なっている。
だから、俺が一人で投げる。
普段、決してメディアには友好的ではない野茂だったが、その“エースの気概”を持つ男だったことだけは、そのパフォーマンスを見ても、そして周囲からの評判を聞いても、間違いない。