革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「ノーノーあるあるなんです」1994年開幕戦・清原和博の打球に守備陣が思わぬ反応!? それでも野茂英雄なら「ここで三振で終わり」のはずが…
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKoji Asakura
posted2025/05/02 11:06
ノーヒットノーラン目前で清原和博の「捕れた当たり」がヒットになり、一転ピンチに。それでも野茂英雄への信頼は揺るがないはずだったが…
実は守備も優秀だった鈴木
当時30歳。身長1メートル75、体重84キロのちょっとずんぐりとしたその体格と出身地ゆえに「北海の荒熊」と呼ばれた鈴木は、1987年から4年連続で20本塁打以上をマークするなど、その勝負強さと長打力で、当時の「いてまえ打線」の中核を担う一人だった。
1997年の開幕戦では、その年にオープンした大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)での記念すべき「公式戦1号本塁打」を記録。2000年の現役引退後、近鉄の2軍打撃コーチだった2004年5月に、病気のため40歳の若さで急逝したが、かつての近鉄を振り返るという、こうした場には絶対に欠かすことのできない猛牛戦士の一人である。
鈴木は、打のイメージが強いのは確かだが、ゴルフはシングル、スキーも指導員クラスの腕前を誇るなど、運動能力もズバ抜けていた。だから、外野守備でも周囲から一目置かれていた存在だったという。
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「だから、こっちも『なんで代えるの?』なんです」と佐野はいう。
野茂なら三振3つで終えるはず
9回の守備に就く前に交代を告げられ、ベンチ裏で荒れた石井は、何とか冷静さを取り戻し、ベンチの前列で戦況を見守っていた。
「野茂の場合、要は3人、四球で出して満塁にしても、その後3人、三振を取る男なんです。そんなイメージでしょ? だから、ランナーが出ても、野茂だったら別に、ここで三振取るね、ってこっちも思っているので、そんなに動揺がないんです。嫌な感じはないんですよね、ランナーが出ても」
無死一、二塁。仮に本塁打が出れば、3-3の同点。しかし、そんなシチュエーションでも、野茂なら全く問題ない。ここから、何事もなかったかのように三振を取って、ゲームを締めくくる。石井も、光山も、その“野茂のスタイル”を全く疑ってもいない。
西武のベテラン、当時37歳の石毛宏典を左飛に打ち取って1アウト。続く吉竹春樹のところで、西武ベンチは代打に新外国人のロッド・ブリューワを送り出した。
引っ張った一打は、おあつらえ向きの併殺コースへ飛んだ。
これで、終わりだ。
誰もがそう思った瞬間だった。ところが、当時35歳のチームリーダー・大石大二郎がまさかの“お手玉”。ゲームセットかと思いきや、一転、1死満塁の大ピンチに陥った。
その瞬間、誰もが目を疑った。
〈つづく〉


