革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「ノーノーあるあるなんです」1994年開幕戦・清原和博の打球に守備陣が思わぬ反応!? それでも野茂英雄なら「ここで三振で終わり」のはずが…
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKoji Asakura
posted2025/05/02 11:06
ノーヒットノーラン目前で清原和博の「捕れた当たり」がヒットになり、一転ピンチに。それでも野茂英雄への信頼は揺るがないはずだったが…
「慌ててポリ(赤堀元之)が作ったんよ。でもポリも『そんなん、野茂さんが投げるに決まってるやん』っていう体で作ってる。コーチに言われたから、仕方なしにブルペンで投げ出した、というだけやったからね」
佐野慈紀という男
佐野は、野茂と同じ1968年生まれの同級生。気の合う2人は、現役当時はグラウンド内外で、常に連れ立って行動していた。野茂に1年遅れてのプロ入りで当時4年目。それまでの3年で112試合に投げ、この年も47試合登板、8勝4敗2セーブをマーク。当時はイニングまたぎも当たり前のセットアッパーは、守護神・赤堀につなぐ役割として、近鉄のブルペンでは、不可欠の存在でもあった。
ただ、現役引退後、野茂との間での個人的な借金トラブルから、かつての親友に返済を求めて訴訟を起こされた。持病の糖尿病も影響して心臓疾患を繰り返し、2024年5月には右前腕部を切断する手術を受けるなど、今なお、長い闘病生活が続いている。
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今回、この「1994年の近鉄バファローズ」を描くにあたって、退院直後だったという佐野は快く、取材を了承してくれた。自らの現状と、野茂への謝罪と合わせて、自身が伝えたいという思いに関して、胸の内を明かしてくれた。
この“元中継ぎエースの述懐”は、今連載で章を改めて、じっくりとお伝えしたい。
なぜ鈴木貴久も交代させるのか?
開幕戦のブルペンにいた、当時の思いに話を戻したい。
「石井さんが3ランを打ったでしょ? よっしゃ、これで野茂、ノーヒットノーランやって盛り上がっていたら、まず石井さんを代えた。僕ら、ブルペンで『うわっ、これヤバいぞ』ってなったんです。流れ、変わるじゃないですか。なんで代えんねん、って」
もう一つ、ブルペン陣が首をひねった“交代のアナウンス”があった。
「鈴木さんも代えたんよ」
佐野が指摘したのは、レフトに入っていた鈴木貴久を、中根仁に交代するという、こちらもベンチにすれば「守備固め」の意味合いだろう。
ところが、ブルペン陣の思いは、ベンチとは完全に真逆だった。
「俺らの認識では、外野手で足が速い、遅いは別にして、一番守備がうまいのは鈴木貴久さんだったんですよ」
この佐野の“評価”が、選手たちの共通認識でもあった。


