「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「監督はなぜこんな仕打ちを…」“広岡達朗に干されたエース”松岡弘がいま明かす1978年の葛藤「プライドが踏みにじられた気分でした」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2023/08/21 17:00
ヤクルト監督時代の広岡達朗と、右のエースとして活躍した松岡弘。初優勝から45年、松岡が指揮官と過ごした“濃密な日々”について語った
プライドが踏みにじられた「空白の26日間」
松岡が語る「あんなこと」とは、心身ともに万全であると自覚していたにもかかわらず、6月5日の登板を最後に、7月2日に再び登板するまでの26日もの間、まったく登板機会を与えられなかったのである。松岡が続ける。
「身体はピンピンだよ。肩も、ひじもどこも痛くない。それなのに、まったく投げさせてもらえない。二軍に落とされるわけでもなく、ずっと一軍にいて遠征にも同行します。試合中にはブルペンでピッチングもしました。それでも、試合で使ってくれない。広岡さんからも、ピッチングコーチの堀内(庄)さんからも何も説明はない。“監督は、何でこんな仕打ちをするんだろう?”って、プライドが踏みにじられた気分でした」
長年、エースとして支えてきた自負があった。チームは確かに弱かったけれど、それでも安田とともに屋台骨を担ってきたというプライドがあった。しかし、広岡は何も説明することなく、松岡に対して登板機会をまったく与えなかった。松岡が困惑するのは当然のことだった。
この間、広岡は松岡に対して、どのように接していたのか? 質問を投げかけると、意外な答えが返ってきた。
「毎日、広岡さんから直々の指導を受けていましたよ。遠征先でも、広岡さんの部屋に呼ばれてつきっきりで30分、あるいは1時間も……」
1978年6月6日から、7月1日までの「空白の26日間」――。ペナントレースの渦中であるにもかかわらず、広岡は松岡に対してマンツーマンの指導を行っていたという。二人だけの密室では何が行われていたのか? そして、広岡の真意はどこにあったのか?
<#2に続く>