「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER

「監督はなぜこんな仕打ちを…」“広岡達朗に干されたエース”松岡弘がいま明かす1978年の葛藤「プライドが踏みにじられた気分でした」 

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長谷川晶一

長谷川晶一Shoichi Hasegawa

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photograph bySankei Shimbun

posted2023/08/21 17:00

「監督はなぜこんな仕打ちを…」“広岡達朗に干されたエース”松岡弘がいま明かす1978年の葛藤「プライドが踏みにじられた気分でした」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

ヤクルト監督時代の広岡達朗と、右のエースとして活躍した松岡弘。初優勝から45年、松岡が指揮官と過ごした“濃密な日々”について語った

 やはり、「信頼」である。記録を調べてみると、三原脩監督が就任した71年から、続く荒川博監督、広岡達朗監督時代の77年まで7年連続で、松岡が開幕投手を務めている。さらに引用を続けたい。

「開幕戦を任され、さらに三原監督の投手起用を見ていると、自分中心でローテーションが回っていることはよくわかるからね。巨人戦の初戦は大体、僕が投げていたから。当時は、僕と安田(猛)のふたりで巨人戦を投げていたからね」

 自他ともに認める「エース」として、開幕投手を託されることは、監督からの「信頼」を意味していた。しかし、78年にはその座を剥奪されてしまったのだ。

盟友・安田猛に対する松岡の思い

 70年代のヤクルトには「二人のエース」がいた。「左の安田、右の松岡」である。1978年に発行された『YAKULT FAN BOOK』によると、公称173センチ、軟投派の安田に対して、公称184センチ、本格派の松岡。好対照な二人は、ともに1947年生まれ、若松勉や大矢明彦とともに「花の昭和22年組」と称されている。松岡は言う。

「安田と二人でチームを支える、それは本当に楽しかったよね。同年代の二人で競争してさ、《左の安田、右の松岡》って言われてさ。ライバルなんて思ったことは一度もないよ。ライバルというよりは盟友。二人はタイプがまったく違うから。もし似たようなタイプだったら、お互いに張り合うこともあったかもしれないけど、彼は本当に気の合うヤツだったから……」

 長い闘病の末、安田は2021年2月20日に73歳で亡くなっている。亡くなる6年前に安田にインタビューをした。その際に安田は、松岡に対してこんな言葉を残している。前掲書より引用する。

「70年代のほとんどは松岡さんが開幕投手で、78年の1年間だけ安田さんは開幕投手となりました。そこには『悔しさ』のようなものはなかったのですか?」

 安田さんはまったく表情を変えずに言った。

「まったく、悔しくないですよ。僕が入団したときには4人の左投手がいたんです。ドラフト1位の杉山(重雄)、2位の榎本(直樹)、そして先輩の安木(祥二)、田中(調)さん。僕の目標はこの4人を抜くことで、右投げの松岡とか、浅野(啓司)とか、そもそも目標ではなかったから(笑)」

【次ページ】 「何の説明もなくあんなことが…」

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