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「野球よりゴルフや麻雀が好きですから(笑)」“甲子園でエース、猛勉強で東大合格”のスゴい人生…100年間で24人だけの天才が明かす“引退まで”
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph byKYODO
posted2022/11/27 17:01
2002年、55年ぶりにセンバツに出場した松江北高。エースとして先発した楠井一騰は一浪ののち、東大合格を果たす
「2年生のとき、130キロ台中盤で伸びのあるボールを投げられるようになったんです。それで、投手の練習をしていたんですが、急に体の使い方が上手くなって出力が上がったことに対して、肘がついてこられなくなった。痛みを訴えたところ、医者からは選手として続けるにはトミージョン手術が必要だと言われました。それが2年の終わり頃です。手術をすれば1年のリハビリ期間を要しますが、その後出場できる保証もないため、選手は引退し、3年生から学生コーチになることを決断しました」
中村はリーグ戦出場を果たせないまま、選手を引退した。「2年半かけて勉強して受験を突破したのに、出場せずに終わるのかと号泣しました」というほど辛い決断ではあったが、その後はデータ分析を主に担い、チームに貢献していく。
「自分は打席に立てなかったですが…」
「相手投手の癖や配球、打者の打球傾向などを分析していました。4年生になると、みんな僕のデータを信頼してくれて、『次の打席、なにを狙ったらいい?』と聞いてくれるようになったんです。『初球のカーブを狙え』などと、アドバイスすると、その通りのボールが来て、選手も打ってくれる。自分は打席に立てなかったですが、そのときに自分がヒットを打った感覚になって、すごく嬉しかったですね。人を支えることのやりがいを感じたのが最後の4年生のシーズンでした」
しかし、緻密なデータを揃えても最終学年で中村たちは1勝もできずに終わった。これが後に続く東大の94連敗の発端となるのだが、惜しい試合は何度もあり、我慢所で踏ん張れなかったことが敗因だと中村は分析する。
「早稲田に9回まで1点差で勝っていた試合では、なんでもないセカンドゴロを暴投し、先頭打者を塁に出してしまった。それがきっかけで同点に追いつかれました。慶應とも1点差で勝っていた試合があったんですが、左中間にツーベースを打たれたことから逆転を許しました。しかも、その打者はデータで左中間方向の打球が多いとわかっていたのに、防げなかった。投手がこの球を投げたら、センターを左中間に寄せようと思っていたら、まさにその球を打たれてしまったんです。そういう、ここを守れば勝てるという場面で浮き足立ったり、詰めの甘さがでてしまう。これがなければ、2勝はできましたね」
◆◆◆
東大野球部のスカウト活動をしている浜田一志も既報「東大野球部は大阪桐蔭・根尾昂を誘っていた『彼が本気で勉強すれば、東大合格していた』東大の“新スカウト戦略”で甲子園経験者が増加中」にて、甲子園経験者を欲する理由を「接戦での強さがあるから」と話している。まさしく、接戦の難しさが出た試合で、甲子園経験者の中村でさえも、その流れを食い止めることはできなかった。やはり、ベンチにもグラウンドにも複数の甲子園経験者がいる状況が必要なのだろう。
こうして、2人の東大野球部での生活は終わる。先発として投げていた楠井と学生コーチとして裏方に回った中村であるが、後編では東大野球部を経て、2人がどんな社会人になっているのかを紹介していく。
<続く>