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「朝練は遅刻、門限ルールは守らず、紅白戦も“おふざけムード”…」大学野球で勝てなくなった名門大…「全部変えた。退部者も出た」伝説の名将がやってきた
posted2025/09/15 11:00
2024年1月、駒大野球部の新監督に就任した香田誉士史
text by

中村計Kei Nakamura
photograph by
JIJI PRESS
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3、4年生の大半は指揮官の「2部に落ちてもいい」という発言に反発を覚えていた。
「なんで2部に落ちないと土台作りができないんだって思ってましたね。1部で戦う中で、力を付ければいいじゃないか、と。去年、先輩たちがせっかく1部に上げてくれたんだから、というのもありました」
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ただし、このやり方は、香田のリーダー学の一つでもあった。大きく羽ばたくために、大きく屈む。香田にとって、起点は恥辱にまみれている方がいいのだ。
「俺の人生が常にそうだからね。屈辱を味わって、それをバネにしてきた」
最初の挫折は高校入試のときだった。佐賀商に進学する際、香田は絶対に受かると言われていた推薦入試に落ち、一般入試で入学している。その怒りが心に火を付け、二年夏にレギュラーに定着し、3季連続で甲子園の土を踏んだ。3年夏はホームランも放った。駒澤大時代は常に準レギュラーだったが、その劣等感をエネルギーに変え、4年秋、明治神宮大会で日本一になったときは決勝で先発出場を勝ち取った。
駒大苫小牧でも初めて日本一になるまでの10年間は何度となく辛酸をなめた。こんなこともあった。2005年春、駒大苫小牧は選抜高校野球大会の2回戦で神戸国際大付のエース大西正樹(元ソフトバンク)に1安打完封負けを喫した。しかし、香田はどこ吹く風といった様子だった。
「どうせなら、ノーヒットノーランの方がよかったんだけどな。そっちの方が材料ができるじゃない。人間なんていいときは人の話なんて入ってこないんだから」
駒大苫小牧を指揮していた頃、香田の照準はあくまで夏だった。秋、春と、その夏、一気に駆け上がるための「屈辱」をコレクションしているような節さえあった。
「門限ルールで退部者も出た」
駒澤大の前体制はよく言えば放任主義だった。だが、香田の目には放任というより放棄に映った。「ぐちゃぐちゃになる」ことを求める香田の性質上、もっとも相容れないスタンスである。
「選手の下に監督やコーチがいるという感じで。最初は、そういうやり方なんだ、ふーん、みたいに見てた。けど、こんなの学生野球じゃないって思った。選手たちにも『こんなの違うからな』って」

