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角田裕毅「あんな声援は人生で一度もなかった」初めてのF1母国開催、自身のルーツ鈴鹿で遂げた2年目の成長
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph byGetty Images / Red Bull Content Pool
posted2022/10/20 17:02
F1に昇格後、初めての母国GPに挑んだ角田。多くのファンの後押しを受け、リザルト以上に彼が得たものは大きい
帰りの新幹線の中で、悔し涙が止まらなかったという角田は、「このままレースをやめることも考えた」という。だが、元F1ドライバーで当時スクールの校長を務め、最終選考会を視察に来ていた中嶋悟が、ドライブスルーペナルティで大きく出遅れた角田の走りに注目。スカラシップからは外れたものの、翌年のF4のシートを与えられ、レースを続けることになった。
この挫折を糧に17年のF4選手権で最年少優勝を飾るなど目覚ましい活躍を披露した角田は、ホンダ・フォーミュラ・ドリーム・プロジェクト(HFDP)の育成ドライバーに選ばれ、18年にはF4選手権を制するまでに成長。19年にはレッドブル・ジュニアにも選ばれ、ヨーロッパでF3選手権に参戦するチャンスを手にした。その後、20年にF2選手権にステップアップした角田は選手権3位に輝き、アルファタウリのシートを獲得。21年にF1デビューを果たした。
角田は言う。
「最終選考会での落選が、僕のレース人生のターニングポイントになったことは間違いありません。18年には鈴鹿でF1を観戦しました。僕は2コーナーのスタンドでピエール・ガスリー選手とブレンドン・ハートレー選手の走りを見ていたんですが、スピードにも、エキゾーストノートにも、すべてに圧倒され、いつかここで走りたいと思いました。だから、鈴鹿は僕にとって、F1ドライバーを目指すスタート地点となった場所でもあります」
誰よりも心待ちにした日本GP
F1にデビューし、F1ドライバーとして凱旋するはずだった21年の日本GP。しかし、その年の夏に日本は新型コロナ第5波の影響を受けて感染者が急増し、モビリティランド(現在のホンダモビリティランド)は8月中旬に日本GPの開催を断念した。
だから、3年ぶりに開催された鈴鹿での日本GPを、角田はどのドライバーよりも楽しみにしていた。F1ドライバーとして鈴鹿の土を踏み、自分の成長した姿を国内のレース関係者に披露したかったからだ。