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[連続インタビュー]名将が球児だったころ――岩井隆「お前はワシの自動小銃になれ」
posted2022/08/06 07:04
text by
高木遊Yu Takagi
photograph by
Yuki Suenaga
春夏通算12度の甲子園出場を誇る名将を語るには、その恩師の存在が欠かせない。それは14歳の夏、衝撃の出会い。以来16年にわたり背中を追ってきた。師弟の強い絆。今も心に残るその教えとは――。
高校1年生の夏を前に岩井隆は先輩に呼び出された。
「土曜日、練習が終わったらいったん家に帰れ。帰ったらすぐに日曜日の準備をして学校に戻って来い」
すぐに身の危険を感じた。
「これはやられるな……」
厳しい上下関係が色濃かった時代、朝まで殴られることを覚悟した。「殴られる時間は少しでも短い方がいい」と終電で学校に戻った。
当時の部室は2階建てで1階を選手が、2階を監督が使用していた。明かりが灯っていたのは2階だった。ノックをして恐る恐る部屋へ入っていくと、監督の稲垣人司と3年生3人の姿。そこで行われていたのは、稲垣による野球の講義だった。1年生にして岩井は、のちに生涯の師となる稲垣に見込まれ、野球理論の英才教育を受けることになったのだ。
埼玉県川口市に生まれた岩井は、王・長嶋に熱狂していた父の影響でバットとグラブを持つようになった。俊足で器用な少年は小学生時代から頭角を現し、中学時代は市大会で2回の優勝、1回の準優勝とチームとしても際立った成績を残した。打順は1番・遊撃手。当時はまだ甲子園出場こそ無かったものの強豪校への階段を着実に登っていた大宮東を志望した。
意気揚々としていたが同校の監督に無下に断られた。理由は体の小ささ。ショックで野球への熱が一気に冷めた。岩井の中で野球といえば、父に何度も連れて行ってもらった後楽園球場で観ていたプロ野球で、甲子園に特別憧れていたわけでもなかった。